タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/10/16

気づきのあるところに智慧がある~実生活との溝をなくす~


タイの瞑想寺では、瞑想実践はもちろん、指導者からの法話を拝聴する機会がよくある。

そうした法話の中で聴いた言葉のひとつにこのような言葉がある。


『気づきのあるところに智慧がある。』


覚束ないタイ語しか話せなかった私の記憶に残っている言葉のひとつだ。

この言葉は、タイのいくつかの寺での法話で聴いた、また何度も何度も聴いた言葉であったことを記憶している。

しかし、そのことを思い出したのは、ほんの数日前のことだ。


瞑想と実生活との溝・・・瞑想実践をされている方であれば、少なからず感じたことがあるのではないだろうか。

仏教と実生活との溝・・・

瞑想と実生活とのギャップ・・・

私も長らく苦しんだことである。


瞑想を頑張っているのに、ぜんぜん実生活は穏やかになんてならない。

仏教を勉強しているのに、悩みなんて全然解決しないし、変わりもしない。


瞑想と実生活とが全く結びつかない・・・

やっていてもぜんぜん意味なんてないではないか!


そのようなことを思ったことはないだろうか?


瞑想が善い方向へと進んでいれば、実生活も自然に穏やかなものとなるはずである。

もし、瞑想がうまく進んでいる一方で、実生活は全く穏やかなものとはなっていないのであれば、それは善き瞑想であるとは言い難いし、瞑想がうまく進んでいるとも言い難い。

そうは言いつつも、始めてすぐさま実生活が穏やかになるわけでもなく、容易に瞑想がうまく進むというわけでもない。

一方で、悩み多き、迷い多き“現実”を生きていかなければならないわけである。
そんな悠長なことなど言ってはいられないだろう。

どうにかして、すぐ目の前にある問題を解決して、次の一歩を踏み出さなければならないのだ。


瞑想と実生活とが乖離してしまっている。

生活に役立っているとは思えない。

・・・よく陥りやすい点である。


私も、陥っていたからよく理解できる。

さらには、それなりの瞑想レベルに到達するということも、そうそう容易なことではないということも。

瞑想実践や仏教的な考え方がどのように実生活と関連していて、どのように役に立つのかが全くわからなかった。

それゆえに深く悩み、深く苦しんでしまう破目にもなったし、生きる方向性も大きくブレてしまう破目にもなった。

全くもって恥ずかしい限りの破目に陥った。

そうならないためにも、できるだけ「気づき」=「意識をした生活」を送ることをおすすめしたいと思うのである。

それでは、どうすることで実生活の上で「気づき」の生活ができるのだろうか?

そして、具体的にどのようにすれば、瞑想と実生活との溝を無くすことができるのだろうか?


それは、できる限り、機会があるごとに、「自分は“今”何をしているのかということを確認してみる」ことだと思う。

ごくごくとらえやすい、大きな、粗い、感じやすく、わかりやすい行為・行動、感情などを確認していくのである。


例えば・・・

今、パソコンで文章を入力している。

今、キーボードに触れている。

今、机に触れている。

今、ボールペンで字を書いている。

今、○○さんの話を聞いている。

今、○○さんの話で、○○と感じた。

今、○○を、○○と感じた。


・・・と、いった具合にである。


以前に記事とした、『苦手な人と顔を合わせなければならない時の7つの提案』にも通じる。


この記事は、苦手な人や、いわゆる“お小言”への対処法としての提案であったが、今回はそれらをもう少し広げてみようという提案である。

そうすることで少しづつ見方や感じ方が変わってくる。

自身に注意を向けて、少しずつ「気づく」こと・「知る」ことが身についてこれば、やがては習慣となってくる。

そうすれば、特に力まず、より自然なかたちとなって、今の自分に「気づく」ことができるようになってくるだろう。


かく言う私も、まだまだ“自然なかたちでの気づき”が身についているとは言い難い。

しかし、これが実生活との溝を無くすことなのだという実感があるし、それらによる善き変化というか、確実な効果を感じている。

熱心な、あるいは熟練した瞑想実践者の方々からすれば、低レベルで、邪道なのかもしれないが、瞑想が苦手な、怠け者で、瞑想の能力に欠ける私には、こうした効果を感じることで精いっぱいだ。

集中的な瞑想ではない実生活の上においては、まずは「少しでも心を落ち着かせて、少しでも穏やかな時間を増やす」ということを目指して十分であると思う。



怒るよりも、より怒らない方向を考える。

イライラするよりも、よりイライラしない方向を考える。

焦るよりも、より焦らない方向を考える。

取り乱すよりも、より取り乱さない方向を考える。


そのようにしたほうが、日々をより楽に、より穏やかに生きることができるのではないかと思う。

なによりも、それが最も現実的で、この私に実践可能なことがらであると思う。


瞑想の目的は、あくまでも「悟り」である。

高い境地を目指したいという方は、是非とも目指していただきたい。

もちろん、私もそうしたかった。

だから、私はそのような道を志したいという方を応援したい。


一方で、私のような凡夫であっても、実践可能で実現可能な穏やかな生き方があるのだということをお伝えしたいと思う。


あくまでも、これは何もしない私との比較であって、完璧に完成された姿は想像しないでいただきたい。

何もしないよりは“より”善く、何もしないよりは“より”楽に生きることができるということである。

これは、やってみる価値はとても大きいのではないだろうか。

仏教の大きな流れのうえから見れば、それもまた仏道である。


さらには、「心を落ち着かせる」→「客観的に自己を観察する」という瞑想の基本的な過程にも通ずるものであると思っている。


瞑想と実生活との溝を無くす。

それは、自身の行動や感情の動きに意識的になるということである。

今、自分は何をしているのか、今、自分は何を思っているのか・・・

それらを意識的に観るのである。

それが、「気づき」だ。


それがなんとなくでもいい。

本当の「気づき」がある時・・・少しだけ変わっている自分に気がつくことだろう。

そして、ほんの少しだけ、自己の感情に流されていない自分に気がつくことだろう。

それが“智慧”である。



タイで聴いたあの言葉。


『気づきのあるところに智慧がある。』


まさに、このことを教えていたのだとしみじみと感じた。



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『苦手な人と顔を合わせなければならない時の7つの提案』

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(『気づきのあるところに智慧がある~実生活との溝をなくす~』)



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