日本へも、いくつかの仏舎利が伝わっているが、それらが釈尊の骨であるといっても、信じる日本人はどれだけいるであろうか。
ちなみに、日本で釈尊の骨として最も信憑性が高いと言われているのが、名古屋・覚王山日泰寺(かくおうざんにったいじ)に奉安されている仏舎利である。
覚王山日泰寺の仏舎利は、インドで発掘調査をしていた英国人ウイリアム・ペッペによってネパール国境に近いインド北部の古墳(ストゥーパ・仏塔の跡)より発見されたもので、その舎利容器に刻まれていた古代文字を解読したところ、釈尊の骨であると確認されたものである。
そして、当時インドを統治していた英国政府より仏教国であるタイ国へ譲渡され、さらにその後、日本からの仏舎利分与の依頼を受けたタイ国・チュラロンコーン国王より、日本の全仏教徒達へと分骨され、贈られたものである。
時に明治37年(1904年)のことである。
この歴史を知る日本人はあまりに少ない。
それゆえに学術上・考古学上、覚王山日泰寺の仏舎利は本物の釈尊の骨として最も信憑性が高い仏舎利であるとされているのである。
さて、タイでも、いろいろな種類の仏舎利が伝えられている。
タイでは、仏舎利だけの写真集が出版されるほど多くの仏舎利が伝わっており、広く信仰されている。
タイで仏舎利とは、単に釈尊の骨だけではなく、高名な仏弟子の骨や高僧の骨なども含まれている。
タイ語では、それらは厳密に区別され、種類によってそれぞれの呼び名があり、さまざまに表現されているが、日本語に訳せば全て「仏舎利」だ。
あえて厳密に表現するならば、釈尊の骨は「仏舎利」、仏弟子の骨は「仏弟子舎利」あるいは「高僧舎利」といったところか・・・。
もっとも、悟りを開いた人の骨という意味では、「仏舎利」という表現で正しいのか・・・
タイで目にする多くの仏塔には、全てこうした仏舎利が納められている。
一方で、タイ人は、この仏舎利を「お守り」のひとつとして持つことも多い。
時に明治37年(1904年)のことである。
この歴史を知る日本人はあまりに少ない。
それゆえに学術上・考古学上、覚王山日泰寺の仏舎利は本物の釈尊の骨として最も信憑性が高い仏舎利であるとされているのである。
さて、タイでも、いろいろな種類の仏舎利が伝えられている。
タイでは、仏舎利だけの写真集が出版されるほど多くの仏舎利が伝わっており、広く信仰されている。
タイで仏舎利とは、単に釈尊の骨だけではなく、高名な仏弟子の骨や高僧の骨なども含まれている。
タイ語では、それらは厳密に区別され、種類によってそれぞれの呼び名があり、さまざまに表現されているが、日本語に訳せば全て「仏舎利」だ。
あえて厳密に表現するならば、釈尊の骨は「仏舎利」、仏弟子の骨は「仏弟子舎利」あるいは「高僧舎利」といったところか・・・。
もっとも、悟りを開いた人の骨という意味では、「仏舎利」という表現で正しいのか・・・
タイで目にする多くの仏塔には、全てこうした仏舎利が納められている。
一方で、タイ人は、この仏舎利を「お守り」のひとつとして持つことも多い。
それほどまでに多くの仏舎利が信仰されているのである。
私も先輩僧から4種類の仏舎利を分けていただいた。
まず、その中の2種類は、普通の仏舎利。
私も先輩僧から4種類の仏舎利を分けていただいた。
まず、その中の2種類は、普通の仏舎利。
きれいな薄い桜色をしている仏舎利と、半透明の乳白色の仏舎利。
もう1種類は、マハーカッチャーヤナの舎利で、漢訳名でいうところの摩訶迦旃延の舎利。
もう1種類は、マハーカッチャーヤナの舎利で、漢訳名でいうところの摩訶迦旃延の舎利。
日本では、釈尊の十大弟子の1人として知られる、かの摩訶迦旃延尊者の骨である。
いくつかの経典の中にも登場する釈尊在世時代の有名な弟子の1人だ。
そして、もう1種類は、私の出家したタイ北部・チェンマイ地方で尊敬されているクルーバー・ウォンという高僧に関する舎利である。
先輩僧からは、きれいな薄い桜色の仏舎利について、
「これは、とてもご利益があるから大切にするんだよ。だから、人にあげちゃダメだぞ。」
と説明してくれた。
「色が透明に近いほど、修行をよく修めた純粋な人のものなんだ。境地が高い人でないと、きれいな仏舎利は出ないんだ。」
と、仏舎利について教えてくれた。
こうした仏舎利は、修行を積んで阿羅漢となった僧侶や非常に徳の高い僧侶の体内からしか出ないのだという。
先輩僧の言葉を疑ったわけではないが、なんとなく他の人にも聞いて確かめてみたいと思った私は、寺の住職のところへ行って、仏舎利について質問してみた。
「先輩僧より仏舎利をいただきました。
これは、本物なのでしょうか?」
と私が質問すると、住職は、
「もちろん本物だとも。」
と、なんのためらいもなくさらりと答えた。
そして、もう1種類は、私の出家したタイ北部・チェンマイ地方で尊敬されているクルーバー・ウォンという高僧に関する舎利である。
先輩僧からは、きれいな薄い桜色の仏舎利について、
「これは、とてもご利益があるから大切にするんだよ。だから、人にあげちゃダメだぞ。」
と説明してくれた。
「色が透明に近いほど、修行をよく修めた純粋な人のものなんだ。境地が高い人でないと、きれいな仏舎利は出ないんだ。」
と、仏舎利について教えてくれた。
こうした仏舎利は、修行を積んで阿羅漢となった僧侶や非常に徳の高い僧侶の体内からしか出ないのだという。
先輩僧の言葉を疑ったわけではないが、なんとなく他の人にも聞いて確かめてみたいと思った私は、寺の住職のところへ行って、仏舎利について質問してみた。
「先輩僧より仏舎利をいただきました。
これは、本物なのでしょうか?」
と私が質問すると、住職は、
「もちろん本物だとも。」
と、なんのためらいもなくさらりと答えた。
さらに住職は、
「本物の仏舎利は、水の中に入れると浮かぶんだ。沈まないんだ。
「本物の仏舎利は、水の中に入れると浮かぶんだ。沈まないんだ。
それと、仏舎利は、一生懸命に修行や瞑想に励むと数が増えて、怠惰な生活をおくると数が減ってしまうんだ。
もし、嘘だと思うのなら、今から仏舎利の数を数えてみて、後日また数えてみるといい。
お前の生活態度がわかるぞ。」
と、ニヤリと笑みをうかべて、このように私に教えてくれた。
マハーカッチャーヤナのものも、住職に本物かどうかをたずねてみてたところ、言うまでもなく『本物』だと答えた。
むしろ、
「これは、背骨のあたりのものかな。」
と、『骨』であることを疑っていない様子であった。
タイ人の多くは、仏舎利を疑っていない。
疑うことなく、釈尊のもの、ないしは、過去に実在したであろう仏弟子のもの、阿羅漢のもの、高僧のものだと信じている。
そして、そのご利益を疑っていない。
私が、ハチに刺された時にも仏舎利に早く治るように願を掛けてみろと言われた。
ふと日本を思い「日本にいる家族はどうしているかなぁ。」とこぼした時にも、
「仏舎利にお願いしておくといいよ!」 と先輩僧から真顔で言われたことを覚えている。
仏舎利には、こうした非常に庶民的な信仰もあるのだ。
このように篤く信仰されている仏舎利であるが、仏舎利が本物の釈尊の骨であるのかどうかということは、おそらく関係がないのであろう。
そもそも仏教では、『物』に執着すること自体を誡めている。
仏舎利も、「聖なるもの」ではあっても、所詮「物」は「物」である。
仏教の目指すところではない。
そのなかに『仏教』を汲みとることができれば、意味があるのではないかと思っている。
あるいは、仏教へと向かわせるきっかけとなることこそが重要なのかもしれない。
日本とは比較にならないほど崇拝され、大切にされている仏舎利。
仏教の目指すところではないけれども、それによって釈尊を見て、釈尊を想い、法を聴き、時には励まされ、修行に邁進することができれば、それがご利益といえるのではないか。
ともあれ「これは、とてもご利益があるから大切にするんだよ。だから、人にあげちゃダメだぞ。」というほどの大切な仏舎利を、私に分けてくれた先輩僧の気持がうれしい。
もちろん言われた通り、その後も大切にしている。
今でも、その仏舎利を見ると住職の言葉を思い出す。
日本とは比較にならないほど崇拝され、大切にされている仏舎利。
仏教の目指すところではないけれども、それによって釈尊を見て、釈尊を想い、法を聴き、時には励まされ、修行に邁進することができれば、それがご利益といえるのではないか。
ともあれ「これは、とてもご利益があるから大切にするんだよ。だから、人にあげちゃダメだぞ。」というほどの大切な仏舎利を、私に分けてくれた先輩僧の気持がうれしい。
もちろん言われた通り、その後も大切にしている。
今でも、その仏舎利を見ると住職の言葉を思い出す。
仏舎利を分けてくれた先輩僧のことを思い出す。
みんなが穏やかに元気で幸せに過ごしていることを願わずにはいられない。
関連記事:
『仏舎利の出開帳』
(『タイの仏舎利』)
みんなが穏やかに元気で幸せに過ごしていることを願わずにはいられない。
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