タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2007/10/16

ある朝の托鉢


ある森の寺でのとある朝、先輩僧のあとについて托鉢に出た。

寺から村まで30分ほどの距離を歩く。


木々の間を1本の幹線道路が走る。

時々、夜行バスや、大型トラックが勢いよく私達の横を通り過ぎていく。



村に入ると、のどかな風景が広がる。



朝食の準備に追われる村の女性達。

学校へ行く準備をしている子ども達。

にわとりがヒナを連れて家の庭を走りまわり、犬が托鉢に歩く私達を眺める。



やわらかな光が差し込む村の中を托鉢に歩く。



そんな穏やかな朝の托鉢でのできごと。



先輩僧が歩いている途中、突然、苦しみだし、気を失って道路に倒れた。



私は、あわてて寺と懇意にしているに村人の家へ助けを呼びに行った。

幸いにも、倒れた場所が、村の入り口にほど近い場所だったので助かった。

先輩僧は、その村人の車で運ばれ、私は続けて托鉢に歩くことになった。



托鉢から寺へ戻ると、その先輩僧は横になって休んでいた。



私:
「大丈夫ですか?」

先輩僧:
「気にすることはない。大丈夫さ。」

私:
「いったいどうしたのですか?」

先輩僧:
「お腹が急に痛くなったんだ。まるで布を『ギュッ』としぼったかのような痛みだった。」

私:
「ほんとうに大丈夫なのですか?病院へ行ったほうがいいですよ。心配です。」

先輩僧:
「大丈夫さ。心配なんてするな。何が起こるかわからないのが俺たちの人生だからな。」



と、さらりと答えた。



私は、先輩僧のこの言葉に驚いた。

彼の表現で言う「布を『ギュッ』としぼったかのような痛み」の腹痛である。



激痛だ。



突然、倒れるほどの原因不明の腹痛に襲われたにもかかわらず、さらりと「何が起こるかわからないのが俺たちの人生だからな。」とさわやかな笑顔で答える。



さすがだと思った。



なにげない一言であるが、仏教の核心をついている。

仏教の教えていることと生活とが一体になっていると感じた瞬間だった。


私がもしそこまでの腹痛に襲われたのなら、すぐにでも病院へ連れて行けと言ったであろう。


あるいは、どんな大病が私の中に潜んでいるのか不安にかられているであろう。

恐れおののいているに違いない。



全く予想もしないことが突然起こる。

人生とは、そんなことの連続だ。

その連続の中で、人はどれだけもがき苦しんでいることか。



「人生は、何が起こるかわからない。」



そんなことは誰もが知っているはず。

しかし、誰もが知っているはずのことではであるが、誰も知らないことでもある。


自分だけは予想外のことには遭遇しないと“勝手に”思い込んでいる。

私には関係がないと思い込んでいる。


実際に全く予想しないことにぶつかった時、自分はどうなってしまうのか。


全く予想もしなかったことに出くわしたその時、「人生は、何が起こるかわからない」ことが全く身についていないことに気づかされる。


いや、気づくこともないのかもしれない。

ただただ、あわてふためき、絶望するだけなのではないか。

簡単なことではあるが、それを身につけることは容易なことではない。



タイでは、仏教の考え方や生き方、仏教用語などが、日本よりもはるかに日常の生活の中に浸透している。


タイ人の何気ない一言から仏教と出会うことがよくある。


「人生は、何が起こるかわからない」ことを肝に銘じて生きることは、人生の中で起こる予想外な出来事に対して、より冷静な対応を助けてくれるのではないだろうか。

そして、その次に何をなすべきかの適切な判断へと導いてくれるものなのではないだろうか。



⇒森の寺で出会った旅の僧侶。

『頭陀行者』



(『ある朝の托鉢』)



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全45話にわたって求道の旅路を綴っています。




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