タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2010/08/05

ある森の寺での生活


森の寺の朝は早い。

細かなところは寺によっても異なるが、ある森の寺での生活を紹介したい。


午前3時30分に起床、4時に朝の勤行と瞑想、そして一番近くの村まで、日の出と同時の5時半から托鉢に出かける。


托鉢は、いくつかのコースがあり、それぞれ数名ずつにわかれ、近所の村まで約30分程かけて歩き、托鉢をする。

寺に帰って来るのは、だいたい7時半。


8時から朝食。

町の寺では、各自が朝の托鉢で得た食物を再び分けて、朝食とし、その余りを昼食とするが、森の寺では、この朝食のみが一日の食事である。


森の寺の食事は、この一日に1回のみというのが基本スタイルだ。

また、自分の持つ『鉢』の中へ自分に適した量を入れて、それを食するというのも森の寺の基本スタイルだ。


余談ではあるが、タイの鉢は禅宗の鉢と比較するとかなり大きく、台所にある「ボール」に近い形をしている。

タイの鉢は、禅を知る人にとっては、著しく違和感を感じるという。


この森の寺でも、やはり食事はこの朝食一回のみである。

食事のマナーに反する行為も厳しく指導される。


朝食後は、自由に過ごしてよい。

森の寺では、一人に一室、一人がやっと住める程の小さな小屋が与えられる。


森の中には、このような小屋がいくつも点在しており、朝食が終わると各自の小屋へ戻り、それぞれの時間を過ごす。


自分の衣の洗濯をしたり、勉強をしたり、瞑想に励んだりと、いたって自由だ。

上座仏教では、午前中のみの食事が認められており、朝食と昼食の2食である。


森の寺では、朝食のみの一日一食というスタイルなので、午後におやつというか、お茶の時間が設けられているのが一般的である。

しかし、おやつといっても、午後に食事をとることは禁じられているので、戒律の上で許されたものが出される。


戒律の上で午後でも食することが許されているものというのは、「飲み物」と「薬」である。

しかし、飲み物であっても「牛乳」と「牛乳を含んだ飲み物」は禁じられている。

また、固形物の入っている飲み物も禁じられる。


ただし、例外として、「蜂蜜」は「薬」とされているので食することができる。


「蜂蜜」の他に「薬」とされているものに、「生姜」や「牛乳(ミルク)が入っていないココア」と、「牛乳(ミルク)の入っていないチョコレート」がある。

「ココア」と「チョコレート」が「薬」という扱いであるのはおもしろい。


夕方6時から勤行があり、一日が終わる。


その後は、また瞑想に打ち込むなど、それぞれの時間を過ごす。

私のお世話になったこの森の寺では、あえて電気を引いていない。

夜はもちろん真っ暗。街頭などもなく、懐中電灯、もしくはカンテラは必携であった。

村から少なくとも数キロは離れており、しかも、幹線道路からもかなり離れていることもあって、車の音などの騒音も全く聞こえない。

聞こえるのは、自然の音のみ。

鳥、虫、蛙・・・、夜にはトゥッケーという大きなトカゲの鳴き声。 

そして、風の音・・・木の葉と木の葉が当たって発する音は、まさに風が走り去っているかのように聞こえた。


こんなにも自然の音だけに囲まれた生活を送ったことはあっただろうか。


いくつかの森の寺で修行をする機会に恵まれたが、これほどまでに静かな寺も初めてであった。

しかし、このような環境の森の寺がタイにはいくつもある。


このような環境は、比較的田舎に生まれ育った私でも初めての体験だ。


もしかすると、日本ではかなりの人里離れた場所にでも行かない限り、なかなか体験することが難しい環境なのかもしれない。


出家とか、瞑想修行が目的ではなくとも、私はこのような環境で時を過ごすのもいいと思う。


タイ人も、バンコクから約4時間ほどかけてこの寺を訪れ、お布施をし、瞑想をし、思い思いの時間を過ごして、それぞれが『徳』を積んで、すがすがしい気持ちになって帰っていく者が多い。

日帰りの人もいれば、数日間滞在する人もいる。自由に来て、自由に過ごすことができるというところがタイの寺のいいところだ。


このように毎日、僧は僧の、在家の人は在家の人のゆっくりとした時間が流れる。


森の中での生活は、日常の喧騒から離れ、日々無意識に受けている様々な刺激からも遠い環境に身を置き、ひたすら瞑想修行に専念し、励むのに適している。


日常生活の中では、知らず知らずの間に多くの刺激を受けている。

その刺激は、知らず知らずの間に心に影響を与えているのだ。

さらにその与えられた影響によって、人の心は左右され、さらには実際の行動が左右される。


まずは、この現実を知らなければならない。


私も、毎日強い刺激を受けながら生活をしているのだということに、静寂な森の寺で生活をして初めて気づいた。

そして、瞑想をして初めて気づいた。


このようなクローズな環境に入ると、実に様々な感情が吹き出し、苦悶する。

日々の刺激を遮断して、心を落ち着かせるにもそれなりの時間が必要であった。


森の寺とは、瞑想修行の場であり、『小欲知足』の実践、つまり欲を少なくして、足るを知る場でもある。

わかりやすく表現すれば、シンプルライフを実践し、身につけるためのトレーニングの場である。


また、五戒や八戒を守ることに努める生活も、このシンプルライフを身につけるためのトレーニングでもある。

比丘の生活とは、シンプルライフの生活であり、このシンプルライフこそ仏教的な生き方なのである。


きっと釈尊時代の比丘もまたこのような生活をし、修行に打ち込んでいたことであろう・・・。



⇒森の寺での生活にて

『ある朝の托鉢』



関連記事:

『死を直視する~不浄観~』

『頭陀行者』

『瞑想中に目は閉じるのか?開くのか?』
(各瞑想法の記事へリンクしています。)



(『ある森の寺での生活』)



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