タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/07/02

気づこうとするということ


「タイでの出家で何が変わったのですか?」

「3年も出家をしていて成果は何もなかったのですか?」


よく、このように問いかけられる。

・・・残念ながら、変わったことなど何もない。



高い境地に至ったわけでも、一定の成果を得たわけでもない。

まして、特別な力が備わったわけでもない。

満足のいく結果は何も得られなかった・・・。


それは、今までの記事の中においても何度なく綴ってきたことだ。



何も変わっていない。

身体が変わったわけでもない。

心が変わったわけでもない。


タイで出家して、瞑想に励んではきたけれど、結局は元通り・・・。


もとの木阿弥だ。


しかし、最近になって、ひとつだけ気づいたことがある。


それは・・・

もし、変わったことがあるとするならば、それはものごとへの「見方や捉え方が変わった」ということだろうか。

すなわち「気づき」である。

私の気づきなど、まだまだ弱い気づきだ。

ゆえに自己の感情に巻き込まれることも多々ある。

いや、むしろ自己の感情に巻き込まれることの方が多い。

だが、この“気づく”ということに気づけたことだけでも非常に大きな一歩であると私は思う。


瞑想は、修行中だけのもの。

瞑想は、寺にいるから成し遂げられるもの。

瞑想は、出家しているから成し遂げられるもの。


“瞑想することだけが実践である!”


・・・私には、そうした思い込みがあったようだ。


この強い思い込みのために“気づく”ということがどういうことなのかがわからなかったのかもしれない。


日本でお世話になったある師からは、



「仏法はあなたのすぐそばにあるのです。毎日、法とともにあるのです。
あなたには、そういうことに気づいて生きていける人になって欲しい。」



と諭されたことがあった。


また、タイでお世話になったある師からは、



「出家であっても、在家であっても同じことだ。何も変わらない。」



と諭されたことがあった。


今思えば、当時の私は、わかっていたつもりになっていただけであった。

どうやらその意味が全くわかっていなかったようだ。


出家への強い憧れとブッダの悟りへの強い憧れから、どこか「出家しているから成し遂げられるもの。」という思い込みがあったのだ。


仏教は、出家者だけの生き方ではない。

仏教は、世間のルールであり、真理である。


ゆえに、日本で普通の人間として生きている私にも当然当てはまるものだ。


日本へ帰国した後、さらに深く悩むことになった。

そして、大きく迷うことになった。

何も得るものはなかったと今までの自己を全て否定した。

しかし、今、はっきりと言うことができる。

それは、見ようとしてこなかっただけなのだ、気づこうとしてこなかっただけなのだと。

それだから、大いに迷ってしまう結果につながってしまったのだと。

そのことを大いに反省している・・・。


見ようとしなければ、見ることはできない。

気づこうとしなければ、気づくことはできないのだ。

そこを見失ってしまったがために、生き方が大きくブレてしまったわけである。


毎日の生活の中であっても十分に自己の観察はできる。

そのことに気がつくのに随分と時間がかかってしまった・・・。

日々の生活の中で、できる限りの「気づき」を心がけることが大切である。


そうすることで、心は穏やかになり、不安や心配も消え去っていく。

そして、安らかなる日々の生活へとつながっていく。


時には、不安や心配が消えないこともある。

心穏やかにならない時もある。


しかし、ひとつでもふたつでも、たとえほんの小さな怒りや不安、ほんの小さな心配やいらだちなどが消え去れば、それでいいではないか。

ほんの少しだけ、たとえほんの少しの瞬間であったとしても、心が穏やかになることができれば、それでいいではないか。

それこそが、最も大切な仏教の第一歩であり、仏教の生き方なのではないか。

それこそが、この世界を生きていくうえで、実に小さな、そして実に大きな実践なのではないか。


私は、天を突く世界で最も高いヒマラヤの頂上しか見えていなかったようだ。

いや、そこしか見ていなかったのだ。


ヒマラヤの頂上へ至るには、まず足元の一歩を大切にしなければならないということを忘れて・・・。


心を育てていこうとする姿勢に出家も在家もない。

私は、そのように考えている。

気づきの心を少しづつ、少しづつ育てていくことこそが大切であると思う。


日々を明るく、穏やかに保つことに努めていけば、やがては善き心は保たれるに違いない。


今日、今、この瞬間を明るく穏やかに過ごすことができたとすれば、それほど善きことはないでないか。


今、為すことができる最善のこと、最高のことを為すように努めていけばよい。

今日、今、この瞬間・・・

そう、気づきである。


もしかしたら、ふと気がづけば“天を突く世界で最も高いヒマラヤの頂上”に立っている自分がいるかもしれない。



(『気づこうとするということ』)



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