タンマカーイは、タイの仏教サンガ・マハーニカイ(※)に属しつつも、あらゆる面において、他の寺とは異なる点が多く、タイの仏教の中ではやはり特筆すべき存在であると思う。
(※タイの仏教は、マハーニカイとタンマユットの2つの宗派がある。)
タンマカーイは、ワット・パクナムで修行したメーチー・チャーン師とその弟子であるタンマチャヨー師によって創始された寺である。
よって瞑想法も、ワット・パクナムのプラ・モンコン・テープムニー師による瞑想法(タイでは、通称「サンマー・アラハン」と呼ばれている。)を継承するもので、基本的には同様である。
しかし、タンマカーイではワット・パクナムの瞑想法よりもさらに進歩的な瞑想法を提唱している。
タンマカーイの瞑想法については、別の頁(※)で紹介するとして、寺での生活を私がお世話になった一週間をもとに紹介してみたい。
(※『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』)
僧院内での生活は、一言で表現すると、非常に規律正しく、「真面目」である。
タイの一般的な町の寺などでは、ある程度の個人的な所有物が認められており、比較的自由である。
タンマカーイの瞑想法については、別の頁(※)で紹介するとして、寺での生活を私がお世話になった一週間をもとに紹介してみたい。
(※『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』)
僧院内での生活は、一言で表現すると、非常に規律正しく、「真面目」である。
タイの一般的な町の寺などでは、ある程度の個人的な所有物が認められており、比較的自由である。
しかし、タンマカーイでは、個人的な所有物といえば、戒律内で認められた僧の資具と本や筆記用具などの勉強に関する物品のみしか持ち込むことができない。
しっかりとした規律の中で、集団生活がおくられている。
テレビなどの娯楽物もなく(もっとも本来は、僧院にあること自体が好ましくないものではあるが、町の寺では僧坊に置かれており、一般化している。)、履物もきちんとそろえることを指導されるほか(タイでは履物を揃える習慣はない。)、美しく衣をまとうようにとの指導も厳しく行われ、きれいなものを身につけよとの指導もある。
僧坊内や境内に散らかった雰囲気はなく、ゴミや落ち葉などはきれいに掃除されている。
瞑想の時間もきちんと取られ、みな真面目に瞑想へ取り組む。
このように僧の守るべき戒律とともに生活上の規律をも正しつつ、それぞれの持ち場や与えられた場所で一日を過ごす。
さらに驚くことがたくさんある。
ゆうに1000人、2000人を超える僧侶達がいっせいに食事をとるその景色は、実に壮麗である。
僧侶の具体的な人数はともかく、あれだけの僧侶達が一斉に集まり、食事をとるその景色は、見た者にしかわからない。
小さな寺なら全員そろって食事をとることも一般的だが、大きな寺であるほど、僧侶達がいっせいにひとつの場所へ集って、食事をとることは少なく、各所属集団ごとに食事を取ることが多い。
そして、夜には在家の信者達や他の寺の僧侶達も招いて説法が行われるのであるが、その説法にまた驚かされる。
タンマチャヨー師が説法をするのであるが、その説法の様子が、正面の巨大モニターをはじめ、数メートルごとに設置された大きなモニターに生中継されるといったハイテクを駆使した(といっては言い過ぎか?)説法なのである。
この説法のあいだには、仏教の教えを織り込んだ歌と画像・映像がモニターで流されたりもする。
モニター中継することによって、広いホールに集った説法を聴きに来た在家の人々にも見えるというわけである。
さらに、この様子は、海外にも放送されているという。
場所によっては同時通訳・生中継されている。
月に4回あるワン・プラ(布薩日)には、さらに多くの何百人・何千人もの信者が集まる。
説法を聞き、瞑想をし、お布施をするといった風景は、他の寺院と何ひとつ変わらないのであるが、大集団で一斉に瞑想を行うその風景や長蛇の列をなしてタンマチャヨー師へ直接お布施をするその風景は圧巻で、驚くばかりである。
タンマチャヨー師は、ひとつのカリスマ的存在であると言えるのかもしれない。
町の寺でも、森の寺でも、また大きな寺でも、小さな寺でも、ある程度の近代化はあっても、タイでは説法やその他すべてに関して、基本的には伝統的な形式を踏襲していると言ってよい。
月に4回あるワン・プラ(布薩日)には、さらに多くの何百人・何千人もの信者が集まる。
説法を聞き、瞑想をし、お布施をするといった風景は、他の寺院と何ひとつ変わらないのであるが、大集団で一斉に瞑想を行うその風景や長蛇の列をなしてタンマチャヨー師へ直接お布施をするその風景は圧巻で、驚くばかりである。
タンマチャヨー師は、ひとつのカリスマ的存在であると言えるのかもしれない。
町の寺でも、森の寺でも、また大きな寺でも、小さな寺でも、ある程度の近代化はあっても、タイでは説法やその他すべてに関して、基本的には伝統的な形式を踏襲していると言ってよい。
あるいは、伝統的な形式の上に成り立っている。
その意味では、タンマカーイはすべてに関して非常に斬新である。
また、余談ではあるが、タイでは、日本以上に都会と田舎との差が大きい。
都会を少しでも離れれば、とてものどかな風景がごく当たり前ににひろがっている。
こうしたタイにあって、田舎から出てきた人が、この風景を目の当たりにしたら、きっと私が驚いた以上に驚くのではなかろうか・・・。
その集客力、その手法、規模の大きさ、出家・在家を問わず、これだけの多くの人達が集まるのであるから、それだけ大きな魅力があるのであろう。
私が率直に感じたのは、なんといっても真面目な生活態度だ。
「この寺はほんとうにいい所だ。おまえもずっとここにいろよ。
瞑想がしたければ瞑想ができる。仏教の勉強がしたければもちろん勉強だってできる。
この寺へ引っ越して来いよ!」
と、私をいろいろと親切に案内してくれた若い僧侶が笑顔で言ってくれた。
彼が自信を持ってそう言うのもうなずける。
関連記事:
〇『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』
〇『ワット・プラ・タンマカーイ~特筆すべきその特徴~』
〇『ワットパクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』
(『ワット・プラ・タンマカーイ ~寺院での出家生活~』)
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