タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2007/07/04

ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法


ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法は、タイでは通称「サンマー・アラハン」と呼ばれており、ワット・パクナムのプラ・モンコン・テープムニー師によってはじめられた瞑想法である。


この瞑想法を行う代表的な寺が、宗家であるワット・パクナムと、その弟子が開いたワット・プラ・タンマカーイである。


子弟関係にあたるので、基本的には同じ瞑想法とみなしてよいが、ワット・プラ・タンマカーイの瞑想法のほうがより発展した瞑想法をとる。



また、このワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法は、タイの瞑想法の中では非常に特徴的なものであるといえる。


呼吸系の瞑想法である通称「プットー」やマハーシ系の瞑想法である通称「ユプノー」など、タイの主な瞑想法は、『大念処経』を基にしており、密接に関連するもので、呼吸や動作を通じてサティ(知る・気づき・・・「今の心」「今を気づく心」)を非常に重視するが、「サンマー・アラハン」の瞑想法ではサティは重視しない。



また、ワット・プラ・タンマカーイでは、「サンマー・アラハン」の瞑想法をより発展させた瞑想法が特筆されるばかりでなく、その寺の活動においてもタイの伝統的仏教教団に属しながらも、一線を隔すものであると思われ、注目に値する。



関連記事:

『ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~』の頁を参照のこと。



ただし、この「サンマー・アラハン」の瞑想法、特にワット・プラ・タンマカーイの瞑想法に関しては、タイのサンガの中において一部からは疑問の声があり、賛否両論があることを付け加えておきたい。



具体的な瞑想法についての紹介へ移る前に、その主な疑問点を紹介することにしたい。
そして、その賛否について述べることはここでは避けたいが、私の目から見た所感を補足として紹介することにしたい。




①ワット・プラ・タンマカーイの瞑想法は、単にサマタ(止、精神を集中させる瞑想)の瞑想であって、ヴィパッサナー(観、ものごとをありのままに観る瞑想)の瞑想ではない、という点。


②仏教は「無我」を説くことが基本的教説であるが、タンマカーイは「我」を説くものであり、仏教を逸脱しているのではないか、という点。


まずは、この2点が教学的批判であるが、これらはごく一部の学僧(学者)レベルの間で疑問が提唱されているに過ぎず、一般のレベルにおいては、厳密な瞑想法や教義的な問題に対する関心は薄いため、これらの問題について詳しく説明できるタイ人は少ない。


③ワット・プラ・タンマカーイの寺院運営に関する批判。


次に、寺院に対する批判である。
教学的に正統なのかどうかという問題よりも、どちらかと言えばこちらの問題の方が大きく疑問視されている。
それは、おそらくタイ国・サンガに対して投げかけられている問題としての性格を帯びていることもあり、より人々の関心を惹きやすいためであろう。




こうした両論があるために、タイ人の間にも親タンマカーイ派と反タンマカーイ派が存在するようである。



先ほど「賛否両論ある」と表現したのは、このような事情による。
賛否のほどは、各個人においてご判断されたい。



さらに特筆すべきは、不思議なことに同じ「サンマー・アラハン」の瞑想法をとるワット・パクナムに対しては、瞑想法への批判や疑問の声は全くないということである。



このことからも、ワット・パクナムが比較的保守的な立場をとる寺である一方で、ワット・プラ・タンマカーイがいかに突出した存在で、その活動がいかに活発であるのかがわかる。



関連記事:

『ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~』



現在のワット・パクナムは、瞑想の道場という性格も伝えてはいるが、どちらかと言えば学問寺としての性格が強く、故プラ・モンコン・テープムニー師の寺として、師を信仰する人々で常に賑わっており、バンコクの中でも有名、かつ人気の寺院の1つとなっている。




このワット・パクナムは、日本の仏教界とも交流があり、留学僧の交流もある。



日本でその名を聞いたことのある方もいることかと思う。



そのため、早くからこの瞑想法は日本に紹介されており、研究書や著書が数冊出版されているので、日本でもその歴史や瞑想法などを詳しく知ることができる。



また、ワット・プラ・タンマカーイについては、最近、詳細な研究書が出版されているので、日本語で寺の活動や瞑想法を詳しく知ることができる。



関連記事:
『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』



前置きが長くなってしまったが、次に簡単にワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法を紹介してみたい。
以下、ワット・プラ・タンマカーイは、「タンマカーイ」と記す。




◎ワット・パクナムの瞑想法


まず、姿勢を整え、無理のないように座る。

呼吸を整え、「サンマー・アラハン」を唱える。


そして「球」を鼻孔のあたりに思い浮かべ、鼻孔→目頭の中心→のどのあたり→へその上2指のところへと「球」を引き入れて、移動させ、「球」をへその上2指のところで静止させる。


この位置に「球」が安定するように何度も「サンマー・アラハン」を唱える。


この「球」に精神を集中させることができるようになると、心を整えることができ、情緒が安定してくるという。


さらに、この「球」から光が発するのが見えるようになり、この光が消えないよう持続させるように集中する。


この段階で瞑想の導入とする。


タイでの通称「サンマー・アラハン」という呼び名は、このように瞑想の時に「サンマー・アラハン」と唱えることからこのように呼ばれている。




◎タンマカーイの瞑想法


上記のワット・パクナムの瞑想法と基本的には同様である(タイでは同様の瞑想法と捉えられている)が、さらに進んで「光の球」を思い浮かべる方法などをより具体的に教えている。


光の球の思い浮かべ方について・・・


思い浮かべる場所は、目を閉じた時の中心、あるいはお腹のへその上2指のところのどちらでもよい。


いろいろな色が浮かんだり、球がぼんやりとしていたり、はっきりとしなかったり、大きくなったり小さくなったり、また動き回ったりするが、無理にはっきりとした光の球を思い浮かべようとせず、楽に力を抜き、それらの状態を眺めるようにする。


そうすればやがて落ちついてきて、はっきりと光の球が見えてくるようになる。


それが難しかったら・・・



お母さんの顔を思い浮かべる、お父さんの顔を思い浮かべる

自分の家を思い浮かべる、自分の部屋を思い浮かべる

自分の部屋にある机を思い浮かべる、イスを、本を・・・思い浮かべる


机の上に置いてあるコップを思い浮かべる

同じようにして、水晶球を思い浮かべる

さらに、光の球を思い浮べるようにする



このようにして、具体的にあるものを思い浮かべることからはじめ、コップや水晶球のように、より光の球に近いものを思い浮かべ、やがては光の球を思い浮かべられるように訓練していく。


そして、よりはっきりと光の球を思い浮かべ、その状態を保つことができるように繰り返し、繰り返し訓練する。



ひらたく言えば、イメージトレーニングを積むわけであるが、はっきりと光の球を思い浮べるための前段階的な瞑想訓練ともいえる。


こうして繰り返し光の球を思い浮べ、それを保つことに努め、瞑想を深め、境地を深めていくわけである。


また、「ブッダのイメージ」を常にへその上2指のところに保っておくということも教えている。
さらに、水晶球(ガラス玉)を瞑想の小道具として使うこともすすめている。



ワット・パクナムでは、上記のような光の球の思い浮べ方のトレーニングやブッダのイメージを保っておくことなどに関しては全く触れていない。



以上は、サンマー・アラハンの瞑想法の“導入部分”である。


導入部分であるとは言っても、ここに紹介した段階に至るにも相当の集中が必要である。



このようにタイの多くの瞑想法で重視する「サティ」(気づき)には触れることなく、「光の球」やブッダのイメージを保つことで瞑想の境地を高めていくという方法論が非常に特異であるといえる。




関連記事:

『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』

『ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~』

『ワット・プラ・タンマカーイ~寺院での出家生活~』



(『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』)


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