タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/02/15

瞑想修行中の苦悩 ~眠気~

瞑想修行のなかで、最も苦しかったこと・・・

それは・・・、私にとっては「睡魔」であった。

何が苦痛なのかということは、おそらく人によって異なるのだろう。

私のようにすぐ眠気に襲われ、大変苦労する人もいれば、あまり眠気には苦労をさせられることなく瞑想へと入ることができる人もいる。

私が出家中に出会った比丘の中には、過度に「食べ物」に対して執着を持っている者、過度に「物」に対して執着を持っている者がいたことを特に記憶している。

あえて“過度”と表現したのは、その執着ぶりが尋常ではないと感じたからだ。
強く印象に残っていることからすれば、やはり相当に“過度”であったに違いない。

食べ物にしても、物にしても、欲しいか欲しくないかでいえば、やはり欲しいであろう。
ゆえに、理解できなくもないが、それほど執着を持たない者からすれば、「なぜそこまで?」と感ずる。

当人にとっては、ともすると相当な苦痛を感じていたのかもしれない。

このことからも、人によって苦痛の度合いや何に対して執着が生じるのかは異なるということが言えそうである。


はたして、これらは今までの生活習慣によって身についてしまったものなのだろうか。

あるいは、天性の個人の性質で、前世から引き継がれてきたものなのだろうか。


私にはわからない。


ただ私に言えることは、私は眠気に襲われやすく、集中することが苦手なタイプの人間であるということだけだ。

この眠気には、私の出家生活の全体を通して悩まされ続けることになった。


「眠気」については、ひとつ、ちょっとしたエピソードがあるので紹介したい。


ある森の寺で、“眠らない修行”というものを実践したことがあった。

常に眠らずに覚醒した状態を保つことで、サティの力をより高めることができるのだという。

また、ひたすら苦しみの感情を観てゆくことで、感情の無常なるを観る力をより高めることができるのだという。

必要以上の睡眠は、いうまでもなく煩悩である。

私の場合、ある一定期間を定め、一日に2時間の睡眠をとっての実践であった。

2時間の睡眠も横になって眠ってしまっては、ついつい長く寝てしまうため、壁にもたれて眠ることにした。

壁にもたれてなど眠れるものかと思っていたが、眠いとなればどこででも眠れるものであった。


ひたすら目を覚まして瞑想する。


この頃には、アーナパーナサティを実践していたため、眠気を催してきたのであれば、すぐさま呼吸の出入りに戻る。

強い眠気が襲ってきた際には、歩行瞑想に切り替えて対処した。


この実践は、なかなか辛かった。


“目を覚ましている”ことだけで精一杯であった。

すぐに眠たくなるのだった。


目覚めさせる方法として、瞑想指導者から示された方法がいくつかある。


・歩行瞑想を行う。
・姿勢を正す。
・身体をゆっくりとまわしたり、前後左右へとゆっくりと揺らす。
・首をゆっくりとまわす。
・目を開けて明るい光を見る。
・頭を働かせる。例えば、自己の身体の観察をしたり、不浄観を修したりする。仏法のことを考える、など。
・お経を声に出して読む。
・数珠を数える。
・気分転換を行う。例えば、水浴びや掃除をする、など。


眠くなってきたら、これらの方法を実践するようにとアドバイスを受けた。

ところが、全て実践してみたが、やはり睡魔はそう簡単には退散しない。

なかなか手ごわい。


最終的には、ひたすら歩行瞑想を実践した。

もし座れば、5分も経たないうちに、すぐ眠りに入ってしまうのだ。

いや、2、3分もすればすぐに眠ってしまう。


ところが、歩いていても眠りに入ってしまうようになってきたのであった。

歩きながら眠りに入ってしまうというのを想像できるだろうか。


歩きながら強い眠気に襲われるたびに何度もふらふらとよろける。

そして、何度も何度もこけそうになったり、柱にぶつかりそうになった。


ついには、歩行瞑想をしながら眠ってしまい、倒れて血を流してしまった。

いつの間にか歩きながら眠ってしまったのであった。


眠ってしまったことにすら気づかなかった。


歩行瞑想をしていると、突然、バンッという強い衝撃を感じた。

壁にでもぶつかってしまったのかと思った。


ふと我に返ると、地面に倒れていることに気づいた。

血も出ているではないか。


あごを切っていたらしい。


あぁ、眠ってしまったのか。

眠りに入った瞬間、身体全体の力が抜けてしまい、倒れてしまったのだろう。


この時ばかりは「負けてしまった・・・」と思った。

眠気には何をしても勝てなかった。


眠気とうまく付き合うことができなかったわけだ。


眠い時は何をしても眠たいものなのか・・・。


周囲で瞑想していた者が「大丈夫か?」と介抱してくれた。

看板が倒れたかのような大きな音がしたから驚いて飛んできたのだという。


この時のなんとも言えない複雑な気持ちを今も覚えている。


この“眠らない修行”というのは、少々極端なのかもしれない。

タイでも決して主流ではない。

しかし、ごくごくわずかではあるが、人知れずこうした修行を続けている比丘がいるらしいという話を聞いたことがある。

ひたすら、このような実践を続けているとは驚きだと思った。


タイでは、ストイックなほど尊敬される傾向にある。

それゆえ、そうした人知れず修行に明け暮れる者の噂は広まりやすい。


私も、この一件があってしばらくの間、周囲から「お前はすごいぞ!」と言葉をかけられ、褒められた。


褒められること自体は嬉しいことではあるが、心中は複雑だ。


サティの力をより高めることができたわけでもなく、苦しみの感情を観て感情の無常なるを観る力をより高めることができたわけでもない。

穏やかなる境地に至ったわけでもない。


なんの進歩もしていないではないか。

ただ単に眠気に負けてしまっただけだ。


もし、何か得たものがあるとすれば、「“眠らない修行”に挑戦したのだ」という、一種の達成感にも似たような感情、すなわち煩悩だけだ。

人がやらないことをやることに快感を見出す・・・さらに「お前はすごいぞ!」という周囲からの声。


悔しいけれども、なんとも皮肉な結果だった。

私はそう感じた。


自己の欲求のままに睡眠をとるのであれば、それは単なる欲であり、煩悩に流されているに過ぎない。

欲求のままに流されることを継続するならば、それらは悪い習慣となって身についてしまうであろう。

そして、身についた悪い習慣は、やがては人生そのものとなってしまう。


適度な睡眠をとったうえで、自己を律していくことが必要だ。

では、瞑想中、眠気に襲われた時にはどのように対処すればよいのであろうか。



ここに紹介したエピソードは少々特殊であるため除外するとして、通常であれば私が瞑想指導者から目覚めさせる方法として示された上記を実践することで大概は対応が可能だ。

あとは、本人がどこまで強い意志を持って取り組むかの問題となる。

それでもどうしても対処できない場合・・・。

それは、高度な集中力を身につけるか、“瞑想の喜び”を得る段階まで到達しなければならないのではなかろうか。

そうでなければ、眠気を無くすことは難しいのではないだろうか。


例えば、好きなことや楽しいことに取り組んでいる時間というのは、眠くはならないはずである。


瞑想も同様、まずはその段階が必要ではないだろうか。

私は、残念ながらこの段階まで到達することはできなかった。

しかし、これはあくまでも“段階”であって瞑想の“目標でも目的でもない”ことは肝に銘じておきたい。


繰り返しになるが、大切なのは自己の身体の動きや感情の動きを知り、気づくことである。

そのために、しっかりとサティをなし、身体の動きや感情の動きの観察を行うのである。
そして、常に穏やかで冷静であらねばならない。


それを身につけることが仏教の瞑想である。


私の出家生活の全体を通して「睡魔」は、最大の壁であり、敵であった。

私は眠気を催しやすく、集中することが得意でない人間である。


今もそうだ。

睡魔にはめっぽう弱い。



(『瞑想修行中の苦悩 ~眠気~』)

4 件のコメント:

榊原 さんのコメント...

大変、興味深いお話をしていただき、ありがとうございます!

Ito Masakazu さんのコメント...

榊原様
いつもブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
私の情けないエピソードではありますが、日々の生活や実践の中での、なにかしらのヒントとしていただくことができれば嬉しく思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見いたしました。

 私の場合、現在、坐禅での睡魔は無いのですが(瞑想を習い始めた頃はよく睡魔に襲われたいましたが)、ここ数年、ミャンマーの瞑想センターで歩行瞑想中にときどき睡魔に襲われます。一般的には、坐禅で睡魔に襲われることがあっても、歩行瞑想で睡魔に襲われることは少ないようなので、私と同様、歩行瞑想中に睡魔に襲われる方がいらっしゃるのだと関心を持って読ませてもらいました。

 歩行瞑想中に睡魔に襲われると、歩行が途中で止まってその場に立ち尽くすようになったり、上げた足が左右に勝手に動いてしまい着地に時間がかかるなどの状態になります。特に歩行瞑想の終点(方向転換する場所)で一旦立ち止まったとき、立ったまま寝てしまったり、夢を見たり、1回だけですが、幻覚を見たりもしました。私の場合、倒れたことはありません。

 そういうときは、たとえば「上げる、運ぶ、下ろす」とサティしていたら、「左、右」とサティを簡易なものに変えたり、歩く速度を速くしたりする対処法を教わりました。これで睡魔が解消することもありますし、ほとんど効果が無いこともあります。

 ちなみに、睡魔に襲われる時って、歩行瞑想の開始時点で、何となく気だるい感じがするなど、「あっ、たぶん途中で睡魔に襲われるな。」と薄々感づくことが多いです。

 指導してくださるセヤドー曰く、「眠気は怠け心の現れ」とのことです。

 坐禅ではなく、なぜ歩行瞑想に限って睡魔に襲われるのか?

 今のところ、自分でも不可解なのですが、たぶん歩行瞑想への抵抗なのではないかと思っています。私の場合、坐禅より歩行瞑想のほうが様々な体験するので、心のどこかでブレーキを掛けたい気持ちがあるのかもしれません。下手な考え休むに似たりだとは思いますが。セヤドーからも、いろいろ考えず、今、ここのありのままを観察しろと言われていますし。

いずれにしても、Never Give Upというのが瞑想では大切ではないかと。何があっても続けていきます。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

睡魔に襲われるとどのような状態で現れるのかということは、おそらく人によって異なるのでしょうね。私の方もパーラミー様のコメントをとても関心を持って読ませていただきました。

幻覚は私もありました。ブログの記事『瞑想・幻覚のなかへ』は、その時のことです。非常にはっきり「視覚」として見えた現象でしたが、あれは幻覚です。師に報告するとさらりと流されました。現実を現実としてだけ受け止めればいいのだということなのでしょう。それ以上でも以下でもありません。

眠気に襲われた際、歩く速度を速くする、強くサティするなどの対処法は、私も教わりましたが、情けないことに全く歯が立ちませんでした。

「眠気は怠け心の現れ」・・・本当にその通りです。私のどこかに瞑想への抵抗感や嫌気、怠けたい気持ちがあり、眠気はそれらの現れでもあるのだと思います。

まさに「いろいろ考えず、今、ここに、ありのままの自己を観察する」ですね。仏教の瞑想は、この一言に尽きると私は思います。

貴重なコメントをありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。