タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/01/10

いつものパターンを変える


“善ききっかけ”とは、自らきっかけに触れたり、きっかけとなることを作ることである。

善ききっかけに触れることがなければ、永遠に善き方向へと向かうことはできない。

すなわち、まずは善ききっかけに触れ、善ききっかけを作ることが、はじめの一歩となるのである。


仏教の肝要は、「縁起」である。
縁起とは、因縁生起、原因と結果の法則をいう。

種をまかなければ、芽を出すことはないし、花となって咲くこともない。

よく仏教という宗教的な枠組みの中でのみとらえられがちな「縁起」であるが、むろんそうではない。

私達の日常生活の中においても当てはまる「法則」だ。
ものごとには全て因果関係があって成立しているということを知らなければならない。


心の動きについてもそうである。

世界は、自己の心の捉え方次第で大きく変わる。

心が変われば思考が変わる。
思考が変われば、見方が変わる。
さらに、出会う事象や出会う人までもが変わってくるのである。

今回は、身近な生活の中で、ごく簡単に実践できることに焦点を当ててみたいと思う。


私達は、知らず知らずのうちに自分の持っている“パターン”に従って行動をしている。
言い換えると、パターンに“はまっている”のである。

パターンとは自分の「型」、つまり自己の習慣や癖のことである。

人間の行動は、各個人が持っている思考パターンや行動パターンに従っている。
無意識のうちに、いつものパターンに従い、ものごとを考え、行動してしているのが“私”なのである。

もし、人生を、日常を、自己を少しでも善き方向へと変えたいと望むのであれば、自己の持つ“いつものパターン”から抜け出す必要があるだろう。

自己の習慣や癖は、生まれた時から現在に至るまで、長年にわたって刷り込まれてきたものである。
すぐに変えることは難しい。

しかし、どこかで流れを変えなければ、同じことを繰り返していかなければならず、いつまでも負のスパイラルの中にいることになる。

では、一体、どのようにすればパターンを変えることができるのだろうか。


いつものパターンに陥ってしまわないようにするには、まず“今”私は何を感じ、何を為しているのかということに「気づく」ことが必要である。

自己を知り、自己の行動を知らなければならない。

しかし、普段の生活の中で、それらを意識している人は少ない。

自己の動きには全く無関心であり、気づきがなされていないということである。

この「気づき」のトレーニングこそが瞑想だ。


例えば、今の感情が心穏やかではなかったとする。
その時、あなたは感情に任せて怒りをあらわにしてはいないだろうか。

この瞬間に「気づき」を入れるようにする。

もし、“今”私が何を感じているのかに全く気づきがなされていなければ、いとも簡単にその感情に巻き込まれてしまうであろう。

この状態が、いつも通りの自分、感情のなすがままに流されている自分である。


まず、自己の感情に気づき、

その感情をそれ以上「追いかけない。」

その感情を「手放す。」

そして、パッと「気分を変える。」

この3つを実践するようにしたい。


そうすれば、いつもの思考パターンを少しだけ変えることができ、やがては自分のもつパターンから抜け出すことができるだろう。


日常を生きて行く中においては、心の仕組みを知ることが非常に大切である。

それは、真理を知ることでもある。

真理の流れに反して生きていくことは、何十倍、何百倍もの労力をかけて生きて行くことである。

一方で、真理の流れに沿って生きることは、実に安らかで穏やかな生き方なのである。
力を入れて、労力をかけて生きてゆく必要は一切ない。

ほんの少しだけ見方や感じ方を変えるだけで、人生は大きく善き方向へと変わる。

ひとたび善き方向への流れとなれば、その流れは少しずつ大きくなり、大河となる。


「いつものパターンを変える」ことは、「人生に善き流れを作る」ことである。

それもまた“善ききっかけ”のひとつだ。


小さな小さな善ききっかけは、やがては大きな大きな善き結果を生むことになる。



(『いつものパターンを変える』)



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