タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/07/07

生きねばならぬ1 ~崩れる~


悟りには少しでも近づくことができたのだろうか?


出家をして一体何が得られたのか。
心の成長があったのか。
タイで学んだことはあったのか。

周囲の人からこのようによく質問されることがある。

そのたびに心が痛む。

心が痛むのは、自分自身でその答えをよくわかっているからだ。
よくわかっているからこそ、非常につらい問いなのである。

寺の人間でさえも仏教や悟りというものに対して真剣に考える者は少ない。
一般世間の中においては、さらにそのような人間は少ない。

それだけにタイの寺院で瞑想をしてきたなどという者は、極めて特異な目で見られてしまう。

ゆえに、そうした質問を何度も受けるのかもしれない。
しかし、胸を張って答えることはできなかった。

それがまたさらに自分自身を苦しめた。
さまざまな意味で。


出家をして一体何が得られたのか。
心の成長があったのか。
タイで学んだことはあったのか。

これらの問いに対する答えは、「何も変わっていない。」だ。
「元の木阿弥」だ。

ブッダに憧れ、悟りというものに近づきたくて、そして少しでも穏やかな心になりたくて・・・。
仏教というものを体得したくてタイへ行った。

しかし、挫折した。
崩れた。

還俗後も日常生活の中では、落ち込むこともあれば、怒ることもある。
心乱れ、感情の言いなりになることもある。

それが出家を志した者の行動なのかとはなはだ疑わしくなる。
しかし、それが紛れもない自己の姿である。

出家前の私となんら変わるところがない。

感情の濁流に飲み込まれるたびに、タイでの出家は一体なんだったのだろう・・・と思う。
その度に自己嫌悪に陥る。

自分自身でもよくわかっているからこそ、悔しく、情けなく、辛いのだ。

単に自己満足のためにタイまで行ったのか?
「違う!」と言いたいが、結果的にはそうなってしまうのかもしれない。
いや、そうなっているから言葉がないのであろう。

それを素直に認められるほど私の心は完成されていないし、何よりも心に余裕がない。

思わず自分自身を嘲笑したくなる。

すでに全てが崩れ去っていることを自覚する瞬間だ・・・。


穏やかな心。
単に瞑想している時のみ穏やかな心が保たれているだけではいけない。

今、生きているこの瞬間、今、この心が常に穏やかでなければならない。

歩いている時も、食事をしている時も、他者と会話をしている時も、眠りにつく時も・・・。
行住坐臥、全ての場面において穏やかでなければならない。

実生活の中においても常に平静な、そして穏やかな心を保っていることができなければならないのだ。
腹が立つことを言われても、困難な場面に遭遇した時も、思いもよらないことに出会った時も・・・どんな時であっても常に平静な心であらねばならない。

そして、いつも客観的にものごとを観ることでき、冷静な判断を下すことができなければならない。

それは、出家中の比丘であっても、在家の者であっても変わらないはずだ。

因(原因)・縁(条件)・果(結果)を観察し、自己の行為(業)を見つめ、行動する。
それが仏教の生き方のはずだ。

結局は、穏やかな心にはなれなかった。
もしかすると、私には悟りに近づける能力すらなかったのかもしれない。

父との関係は単なる理由付けに過ぎなかっただけなのかもしれない。

本当は、自分には歩めない、はるかなる道、そして大いなる道に打ちのめされてしまったに過ぎない。

そう、私には、そうした徹底した観察ができなかっただけなのだ。


還俗を決意し、自らの意思で還俗した。
そして、日本へ帰国した。

進むべき道もわからない。
目標もない。
何をしたらいいのかもわからない。

生きる意味すらわからない。


それは、日本へ帰国し、再び日本での生活が始まり、さらに痛烈に思い知らされることになる。


痛烈に思い知らされる・・・。
痛烈に思い知らされたところで状況は何も変わらない。

進むべき道がわからなくとも、目標がなくとも、何をしたらいいのかもわからなくとも、私自身がこの日々を生きていかねばならぬのだ。



(つづく)
『生きねばならぬ2 ~お金と生活~』



(『生きねばならぬ1 ~崩れる~』)



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3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

すみません。メール送らせて頂きました。記事のコメントではありませんの公開なさらないで結構でございます。

匿名 さんのコメント...

タイの仏教の話を聞く機会などそうそうありませんので大変楽しく拝見させていただいております。

何やらとても苦しそうでしたので、コメントさせていただきます。

”喫茶去”
タイの仏教ではありませんが、ブログ主さまには今このあり方が必要なのではないかと感じました。

在家における理想の形を探すのではなく、今やるべきことをしっかりやる、それが出来たら結果的に仏教的な生き方になるのかなと私は感じております。

ブログ主さまに三宝のご加護がありますように。

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様へ

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。また、コメントをいただきましてありがとうございます。
気にかけていただきましたこと、本当にうれしく思います。ありがとうございます。

このブログは、タイでのことや還俗後のことなどを含めて、過去を振り返りながら書いている「回顧録」です。基本的には、どの記事からでもお読みいただけるよう記事ごとに「読み切り」を原則としておりましたが、最近ではシリーズで書くことが多くなっており、時系列がわかりにくく、読みづらくなっているのではないかと少々不安に思っております。

おっしゃる通り、私も結論としては「今できる最善の選択をして生きる」ことが仏教の生き方であると思っております。それは、出家・在家を問わないものだと思います。ところが、恥ずかしながらそこがわかっていなかったため、帰国後しばらくは記事の通り大変に苦しみました。記事のような出来事は、自分がわからない程心が乱れていた当然の帰結であり、反映だと思います。その葛藤や出来事もまた意味があったのでしょうか・・・タイでのことも、全く意味がなったけれども、意味があったのかもしれないと今では感じています。
あと数回程“苦しい記事”のアップを予定していますが、何卒お付き合いくださればと思います。

お言葉、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。