タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2012/05/20

瞑想・特定の現象を求めないこと


「特定の現象を求めないこと」


それは、瞑想修行の際、常に気をつけておかなければならないことである。


特定の現象とは・・・


光を見る、ブッダを見る、などといった「何か」を見ること、あるいは例えようのない快楽を得るなどといった心身現象のことである。

おそらく、『瞑想』というものに興味を持つ者の多くは、少なからずそのような現象や力を得ることを求めているのではなかろうか。


修行に励むからには、何かしらの成果や実感を得たいと思うもの。

そうでなければ、何のためにやっているのかわからない、修行に励む甲斐がないというもの。

そう思うのが普通であり、心情でもあろう。



一応、学生時代、仏教の教学を学んできて、仏教の基礎を理解しているつもりではあるものの、私にももちろん少なからずそれを求める心があった。

瞑想をすればなにかが得られるかもしれない。

修行をすれば、なにか特別な境地に達することができるのかもしれない。


しかし、実はこのように思うこと自体が落とし穴でなのである。

そのあたりを特に気をつけて瞑想修行にのぞまなければならない。

ある瞑想指導書の一文を引用することとする。



『実践において、「特定の心身現象」を求めることは、極めて危険なことである。

なぜなら、ある一定の指向に執着することとなり、もっと長く、もっと遠くに、といった欲動が働いてしまうからである。

「特定の現象」を得たとすると、その時に~この実践は簡単なものである~と少なからぬ驕慢さが生じて、その後の実践が怠慢になってしまう。

これは、実践の退行であり、まったく無益なことである。つまり、~真の覚醒に到達しえない~

修習者(瞑想実践者)が性急になり、自分の能力以上のことをしようとすると、かえって実践の進歩が阻害され、苦しみ、憂い、失望、疲労が生じ、修行実践に迷いが生じてしまう。

また、「こんなに努力しているのになぜ結果が得られないのか」といった疑いも生じ、途中で修行を投げ出してしまうことにもなりかねない。

真の習修者は「特定の心身現象」を求めることなく、いつも意識を中立の状態に保つよう努力し続けている。』


※『ウィパッサナナー瞑想・修習の導き』
  ウィウェーク・アーソム ウィパッサナー瞑想センター 2002年 より転載



仏教の瞑想は、「特定の心身現象」を得ることが目的なのではない。

また、超常現象や超能力を身につけることが目的なのでもない。


光を見るために瞑想をするのか?

心地よい感覚を得るために瞑想をするのか?

超能力を得るために瞑想をするのか?

それらは仏教の目指すところではない。


ものごとを客観的に観る智慧と、ものごとをありのままに観る智慧を得るために瞑想することが仏教の瞑想の目的であり、仏教の目的そのものである。


しかし、実際の瞑想修行のなかでは、様う々な心身現象と出会う。

光を見ることもあるだろうし、ブッダの姿を見ることもあり得る。

とてつもなく心地の良い感覚や喜びに満ちた感覚に襲われることもある。

そして、私は悟りの境地に達したのだ、私は超能力を得たのだ、私は人とは違う体験を得たのだ、悟りを得たのだ・・・と思い込んでしまう。


とんでもないことである。


どのような心身現象に出会ったとしても、それは単なる『事実』として受け止め、決して自分自身による勝手な解釈を加えてはならない。

自分自身が出会ったひとつの現象としてとらえなければならない。

どこまでも自分自身を客観的に観なければならない。


このあたりが、瞑想における最も重要な部分であり、もっとも危険な部分でもある。

また、もっとも誤りやすい部分でもあり、ここに正しい『師』について瞑想を学ぶことの重要性がある。



(『瞑想・特定の現象を求めないこと』)



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