タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2010/05/17

タイの神様とお坊さん

タイにも神様がいる。

家の庭のすみっこや工場の敷地のはしっこ・・・タイの町を少し歩けば、小さな鳥の巣箱のようなものがあることに気がづく。

いたるところにあるので、簡単に目につくことであろう。

これは、日本で言うところの『神棚』や『祠』のような存在で、タイの神様を祀ったものだ。

なんだか、日本とも相通じるものを感じる。


タイにもたくさんの神様が存在する。

しかし、タイでは仏教の出家僧は神様に対して礼拝してはいけないことになっている。

それは、神様を祀り、礼拝するのは在家者が行うことだからである。

なぜか・・・


タイでは出家した僧は、在家者に対して礼拝することはしない。

タイでは、手を合わせてお互いに挨拶を交わす。

日本で言えば、『合掌』をしながら「こんにちは」と挨拶を交わす。

その動作を僧は在家の者に対して行ってはいけないことになっている。


それは、言うまでもなく、出家者を尊び、三宝を敬う姿勢からきている。

僧は出家者であり、仏道修行者だからである。

出家者を重んじるインド以来の伝統を受け継いでいる。

ゆえに出家者であり、修行者である僧は、在家者からの敬意の対象となる。


仏教の世界観では、「神」は迷いの衆生のなかに含まれる。

神という存在は、人間よりは上位に位置する存在ではあるが、人間と同じく在家の存在ということでもある。

僧と神との関係は、在家者である神が出家者である僧に敬意を表するという関係だ。

よって、僧は、神様に対して礼拝をしないのである。


寺の境内にも神様を祀った祠のある寺があるが、僧は一切関与せず、在家の者が管理をしている。


僧が合掌し、三礼して敬意を表するのは、ブッダ(仏像)と僧(師匠や先生に当たる僧と先輩僧。ただし、後輩僧にはしない。)のみで、在家の者に対しては合掌して挨拶を交わすことはしない。


日本人にとっては少し理解しがたいかもしれないが、この関係は、僧とタイの王様との関係においても同じである。

タイの僧は、在家者である王様(あるいは王族)に対しても、礼拝の挨拶は交わさない。
王様や王族といえども、在家者であり、出家者のほうが上位とされることの表れである。


ちなみに、タイでは朝の8時に国歌斉唱があり、駅や学校では国を讃えるタイ国の国歌が流れる。

歩いている人は、朝8時にタイ国の国歌が流れる始めると、一般の人々は立ち止り、起立しなければならない。

駅やバスの待合室で座っている人も起立しなけらばならない。

この光景に驚く観光客も多い。

しかし、僧は座っていても起立しなくてもよい。起立してはいけない。

出家者はすでに世俗の者ではないし、僧自身が敬意を表され、讃えられる立場にあるからだ。


タイでは仏教が最も尊い存在として生きている。

タイは、現在も三宝(仏法僧)が篤く敬われている国であり、三宝が生きている国なのである。



(『タイの神様とお坊さん』)



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