タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/12/03

森のお寺で修行ができるということ

森のお寺での生活は、実に質素だ。

質素な衣に一日一食の食事、そして簡素な住まいでの生活。

静寂な森の中で心身を清らかにしつつ瞑想実践に励むのである。

現代にこんなにも静かで、こんなにも質素で、こんなにも簡素な生活があるものなのだろうかと疑いたくなるような生活がここタイの地で、実際に私の目の前で展開されている・・・。

あたかも経典を読んでいるかのようなブッダの時代の世界を彷彿とさせる生活だ。


こうした質素な生活が展開されている森のお寺ではあるが、文字通りの“質素”なお寺から、かなり裕福なお寺まで実にさまざまである。

質素なはずの森のお寺が、実は裕福だと聞くと、少々意外に感じるのではないだろうか。


比丘は等しく敬われる存在ではあるが、町場のお寺の比丘よりも森のお寺の比丘の方がどちらかと言えば一目置かれる傾向にある。

それは、より過酷な環境下において、より質素な生活を送りつつ持戒堅固に生きる姿勢を貫いている森のお寺の比丘であるからこその傾向であると言えるだろう。

比丘は、禁欲的であればあるほど尊敬される。

また、比丘らしい生活を送っていればいるほど尊敬される。

なんと素晴らしい姿なのだろうか。


それゆえに、名の知られた森のお寺や著名な瞑想寺院ともなれば、その傾向がさらに増して“人気”は極めて高くなる。

“人気”の高いお寺へは、日々多くの信者が集い、日々多くのお布施が集まって来る。

徳の高い比丘へお布施をしたいと思う気持ちは、とてもよく理解ができるところだ。

言うまでもなく、そうしたお寺には品物が豊かにあり、どこか小奇麗で垢抜けた建物のお寺も多い。


お寺へお布施をして、静寂な森のお寺で瞑想をして、たくさんの徳を積むことを何よりの喜びとする人々の思いは篤い。

その恩恵によって、出家者達は仏教の教理・教学の学習や瞑想実践に集中することができ、純粋なる修道生活を全うすることができるのである。

さらには、お寺へ来た在家の修行者をも受け入れることができる環境が整うのである。


質素な森のお寺と言えども、お寺を維持していかなければならない。

維持をしていくには、それなりの“収入”が必要だろう。

そうした基盤は、森の中で持戒堅固なる生活を送り、瞑想実践に励みながら生活を送る比丘達の生活態度と、こうした姿勢に敬意を抱きつつ徳を積むことを何よりの喜びとする人達の篤い篤い思いによって支えられているということを忘れてはならないと私は思う。




~ある森のお寺のクティ~
朝夕の勤行と托鉢へ出る時以外は、森の中で一人静かに過ごす。
他人と話すこともなければ、他人と顔を合わせることもない。
自身の「志」次第では、こうした環境に身を置いての瞑想修行も可能だ。



さて、ここで私のタイでの体験をひとつご紹介したいと思う。

私が出家したお寺は、北タイにある山奥の何もない小さな森のお寺だ。

小さなお寺ではあるが、修行に重きを置いた姿勢を貫く森のお寺の流れを汲んでいる寺院である。

そのため、葬儀や婚礼などの「儀式」は、その全てを麓にある村のお寺へとお願いされているので、このお寺で執り行うことはないし、比丘が招待されることもない。


また、小さいながらも戒壇を備えた正式な「寺院」だ。

森のお寺は、戒壇を持たない正式な寺院ではないお寺も多いのであるが、私が出家をしたお寺は、戒壇を備えた正式な「寺院」である。

正式な寺院であることに驚きを感じるほど、非常に素朴で、非常に質素で、本当に飾り気のないお寺であった。

まさに「清貧」という日本語がぴったりのお寺であると私は感じた。

ところが「清貧」なお寺なだけあって、本当に何もない。

ただ日常生活に困らないだけの最低限度のものがあるだけだ。

それで十分ではないか。

生活をするのに不自由することは何もないのだから、なんとありがあたいことだろう。


私は、こうした非常に質素なお寺での出家から始まったためなのだろうか。

とある非常に裕福な森のお寺で修行をさせていただいた時のことだ。

このとても裕福な森のお寺の姿を初めて目にした時、若干の驚きと戸惑いを感じたのであった。

或る時、そのお寺へお布施されてきた品物を保管している倉庫へと連れて行ってもらう機会があった。

その倉庫の中を見て驚いた。

たくさんの種類の懐中電灯がある。

あらゆる種類の文房具類が豊富にある。

比丘が使用する資具がたくさん、しかも何種類も保管されていた。

生活に必要な品物の全てが何でも豊富に揃っているのだ・・・おそらく全てお布施されてきたものなのだろう。



大して驚くべきことではないじゃないかとお思いだろうか。

日本の生活は、何でもあって、何でも選べて、何でも揃うのが普通だ。

しかし、出家の生活では“何でもある”“何でも選べる”ことが当然のことではない。

お布施されたものしか手にすることはできないし、しかも森のお寺ではたとえ必要なものであってもそれ程豊富に品物が揃うとは限らない。


「必要なものがあったら何でも言いなさい。」


倉庫の管理を任されている人からこのようなことを言われたように思う。


ところが、これだけ豊富に品物が揃っている森のお寺だが、ここに止住している比丘達は、誰一人として贅沢な生活をしている者はいなかった。

誰もが見た通りの質素な生活をしているのだ。


・・・それもそのはずだ。


比丘とは、お布施されたもので命を繋ぐ者であり、欲少なくして慎みある生活を送ることに努める者である。

森のお寺は、そうした生活態度を貫いているお寺であり、そうした生活態度を身につけていくためのお寺だからだ。






質素な生活であるはずの森のお寺がお布施されてきた品物で溢れている?

・・・これは、果たして皮肉なのだろうか。

・・・いや、それは違うだろう。

だからこそ、今こうして瞑想実践に専念できる日々を送ることができるのではないか。


もしも・・・その森のお寺の住職であり、瞑想指導者でもあった長老に私が感じたこの驚きを伝えたならば、一体どのような答えが返ってきたであろうか。

「それがどうかしたか?」と返されるのだろうか。

「あればある、なければない。ただそれだけのことだろう。」と返されるのだろうか。

・・・そんなことが少し私の頭の中を駆け巡った。


古の日本には、庵で質素に暮らした僧侶がいたという話が伝えられている。

庵暮らしとは、一体どのようなものだったのだろう・・・森のお寺で過ごした日々の中で、何度も何度も思いを馳せていたことを記憶している。


タイでは、出家している限り衣食住の心配は必要ない。

「比丘らしく生きること。」

ただそれだけに努めてさえいれば、必ず誰かが支えてくれる。


簡素で、質素な森のお寺。

静寂な空間で、持戒堅固に生きる。


質素な森のお寺であるはずが、とても豊かだったことに一瞬の驚きを感じた私であったが、いろいろなことを教えられたような気がした。

修行生活に専念できる環境に身を置くことができる・・・嗚呼、なんとありがたいことなのだろうかと心から感じた。

同時に、自然に身が引き締まってくるのであった。



参考図書:

石井米雄監修 『ブッダ 大いなる旅路2 篤き信仰の風景 南伝仏教』 1998年  NHK出版
(※Amazonへリンクしています。)







・137頁より 「通過儀礼と人々の意識 仏教の根幹をなす一時出家」
・143頁より 「タイの「森の寺」 その歩みと社会的背景」


タイの森のお寺の概要やその流れについて比較的学術的に、かつ幅広く考察がなされている。
わかりやすく簡潔にまとめられているので、タイの森のお寺についての外郭を知るには適しているかと思う。

テーラワーダ仏教に関する情報も多くなったうえ、素早く容易に入手できる昨今にあっては、すでに情報として古い文献になってしまったかとは思うが、私の体験と重なる部分も非常に多く、ここに参考図書として挙げさせていただいた。



(『森のお寺で修行ができるということ』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
読んでいると、タイの森のお寺に行ってみたくなりますね。かつて、タイの森林僧院巡りをしてきたイギリス人比丘は、タイの森林僧院を絶賛していました。いくつかの僧院では、それこそ悟りに達したのではないかと思われる修行僧とも出会うことができたと言っていましたし。
修行するには、とてもすばらしい環境であると言っていました。
私の方は、少なくともミャンマーでは今まで静寂な環境で瞑想したことがありません。
私が行っていたミャンマーの瞑想センターは、市街地の大通りに面したところにあるため、いつも車の騒音が聞こえますし、訪問客も多く、とても静寂な環境とは言えません。
いつかは、ヤンゴン郊外や地方の僧院など、静寂な環境で瞑想したいとは思っているのですが。
それと、
森林僧院が裕福になってしまうのは、ミャンマーでも同様のようです。
持戒堅固に瞑想や勉学に励む僧院ほど、熱心な在家信徒、特に富裕層からのお布施が集まり、結果的に裕福になってしまうようです。
逆に尼僧にはお布施が集まりにくいようです。
尼僧は正式な比丘尼ではないこともありますし、徳を積むために、お布施はどうしても男性の高僧や堅固に修行しているところに集まりやすいですからね。
ミャンマに行ったときには、なるべく尼僧へのお布施もするよう心掛けています。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

タイにおいても同じような状況であるような気がいたします。私も、ある有名な瞑想センターで瞑想を実践する機会があったのですが、残念ながらその瞑想センターは静寂とは言い難い環境でした。聞くところによりますと、その瞑想センターが創設された当時は随分と閑静な環境だったそうなのですが、少しずつ周囲の町の発展とともに、現在のような状況となり、町のど真ん中となってしまったのだそうです。おそらく今は、私が滞在していた当時よりもさらに周囲の町は発展しているのでしょうね。

尼僧についても同じ状況であると思います。著名な瞑想寺院や瞑想指導者のもとには、比丘達だけではなく、多くのメーチー(ミャンマーと同様に、正式な比丘尼ではありませんが、尼僧と訳されることが多いです。)達がいて、みんなとても熱心に修行に励んでいます。またタイではメーチーを中心とした女性だけの修行グループもあり、やはり熱心に修行に励んでいます。私の出家中に連れて行ってもらったことがあるのですが、どのような運営のシステムになっているのかとても興味深いところです。

瞑想修行に専念できる場と適した環境があるということは、非常に素晴らしいことであると感じました。
とても興味深いお話をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。