タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/04/13

阿羅漢はいるの?

「阿羅漢はいるの?」

私が何度か尋ねたことのある質問だ。


「阿羅漢はいる。」

必ずこうした答えが返ってくる。


「じゃあ、どこにいるの?」

と、再び問いかける。


「タイのどこかに必ずいる。」

と、こうした答えが返ってくるのだ。


・・・あるいは、著名な比丘や高名な瞑想指導者の名前を挙げる者もいる。


タイの多くの人々は、阿羅漢、ないしは高い境地に至った聖者は必ずいると考えている。

それゆえ、著名な比丘や高名な瞑想指導者の名前を耳にすると、「師は、阿羅漢なのかどうか」ということがよく議論されたりもする。

さらには、「師は、すでに阿羅漢なのではないか」、「師は、すでに預流に至っているのではないか」などといったことが囁かれたりもする。


タイにそこそこ長く滞在されたことのある方であれば、一度や二度は、こうした話題を耳にされたことがあるのではないかと思う。

すでにご存知の通り、このような話題は決して珍しいものではない。


「阿羅漢はいる。」という答えを聞いて、あなたはどのようにお感じになるだろうか。


日本には、こうした高潔な人物はいるのだろうか。

いや・・・日本では、そもそも、先程挙げたような会話を聞くことはまずないのかもしれない。

“生き仏”という言葉でさえも、もはや死語に近いといっても過言ではない。


「阿羅漢?・・・そんな、まさかね。」

私が初めてこのような話題を耳にした時に感じたことだ。

こう感じたのは、私がまだ日本人的な感覚を持っていたからだろうか。


そんな私の感覚とは反対に、多くのタイ人達は、阿羅漢や聖者の存在に対して、疑いの目を持っている様子がないのである。

そして、阿羅漢はいるのだとはっきりと言い切る。


外国人である私から「阿羅漢はいるのか?」と尋ねられたから、話を合わせて「阿羅漢はいる。」と答えているのではない。

みな確信を持ってそのように言っているのだ。


聞く人、聞く人・・・毎回、ここまで断言をされると、不思議なことに「そんな、まさかね」といった気持ちは、いつの間にやらかき消されていくのであった。


真剣にダンマを、そして悟りを求めてタイまで来た私としては、もしも、本当に阿羅漢となった方や高い境地に至った聖者がいるとしたら、是非ともお会いさせていただき、この愚かな私にご指導を賜りたい・・・。

阿羅漢や聖者に対して、煩悩まみれの凡夫である私がこのように言うのも大変あつかましいことなのかもしれないが、心の底から本当にそのように思う。





<合掌・礼拝>
マハーブーワ師(1913年~2011年)
写真は、ある比丘が私にと手渡してくれたもの。
参考文献:『増補版 手放す生き方』

タイで阿羅漢なのではないかと言われていた高僧のひとり。
・・・ある日、いつもは静かな森林僧院が少しだけ騒がしくなった。著名なマハーブーワ師がお寺の近くへ説法に来るという話であった。非常に残念なことながら、私はその時、何らかの所用があり、一緒に行くことができなかったのだが、お寺に止住している比丘達の多くがマハーブーワ師の説法を聴きに行ったそうだ。これは、その説法の際に配られたもので、ある比丘が私にと手渡してくれたものだ。



<合掌・礼拝>
チャー師<アチャン・チャー>
(1918年~1992年)
写真は、ワット・ノーンパーポンの日常勤行集の表紙より。
参考文献:『増補版 手放す生き方』

チャー師もまた、タイで阿羅漢なのではないかと言われていた高僧のひとり。
タイで最も知られた森林僧院のひとつであるワット・ノーンパーポンを設立し、多くの弟子達を育て、タイ国内をはじめ海外を含めて多くの分院が作られた。私は、その分院のひとつである森林僧院で出家の一時期を過ごし、森林僧院での生活を学び、瞑想の実践を学ばせていただいた。





その人が果たして阿羅漢なのかどうか・・・実際にはそのようなことは誰にもわからない。

所作や振る舞い、その人の発言や言葉などから、周囲の者達が“勝手に”そのように思い、そのように判断し、そのように言っているだけのことで、確かめようのないことがらなのである。

あくまでも、本人自身が言い出したことではない。


本当に悟り、あるいは聖者の域へと達しているのであれば、当の本人としては、執着そのものがなくなってしまうわけであるのだから、他人がどのように言っていようが大した問題ではなく、誰が何と言っていようと、全く気にもならなくなってしまうことだろう。

もっとも、自ら「私は、悟っている」などと言っている者は、言語道断なのではないかと思う。

悟ってもいないのに悟ったと嘘をつくことにもなりかねず、戒律上大罪を犯すことにもなりかねない。


そもそも、「私は、悟っている」などと言い出す者ほど疑わしいのではなかろうか・・・。


もしも、そのような者がいたとすれば、おそらくそれは自己顕示欲の現れか、その人の勝手な“悟り”にしか過ぎないと見るほうが妥当なのではないかと私は思う。

少なくとも、その種の悟りは、仏教における悟りではない。


仏教国でありながら、仏教の理解が希薄な日本では、こうしたことを指摘する声は極めて少ないように思う。

・・・もちろん、彼を阿羅漢であると考えるのか、考えないのかは、実際に会って、実際に話をして、実際にその人の人柄に触れたうえで、自分自身が判断すればよいことだ。


ところで、阿羅漢かどうかの議論に付随して、著名な比丘や高名な瞑想指導者には、不思議な話のひとつやふたつは付き物であると言ってもよい。

また、市井の人々もそうした不思議な話のひとつやふたつくらいは知っている。

私も、不思議な話をいくつか聞いたことがある。


ある高僧が住するクティが毎晩、光輝いていたという話。

ある高僧にまつわる舎利が光を放っていたという話・・・。


その比丘の徳の高さ、境地の高さを伝えんがための逸話であると私は理解している。

現実にはあり得ないような摩訶不思議な話だ。

当然のことながら、にわかには信じがたい話ではある。


ところが、私と一緒にこの話を聞いていたタイ人達は、少しばかりの笑いを交えながらも、真剣な眼差しで「ほうほう」と頷きながら聞いていた。

果たして、本気で聞いているのだろうか。

いかにも“本気”な表情に、そこを尋ねる勇気はなかった。

「そんなわけ・・・」と思った私は、もしかすると、罰当たりなのかもしれない。


このような高僧にまつわる、いわゆる“霊験譚”を挙げれば枚挙にいとまがない。

高僧にまつわる話ということで、おそらくは尾びれや背びれが付いていることも多くあるだろう。

今も大真面目にこうした話題が語られるというあたりが、いかにも仏教国であるタイらしいところで、面白くもあり、非常に興味深くもあるところだと感じた。


阿羅漢がいるのか、いないのか・・・それは私にはわからない。


しかし、本当にタイのどこかに阿羅漢は存在しているのだと多くの人々は考えている。

私は、阿羅漢がいてもおかしくはない世界だと感じた。


いてもおかしくはない世界・・・非常に素晴らしい世界ではないか。


なぜならば、タイには、本当に悟っているのではないかと思わせる人達がたくさんいるのだ。


「人格者」という言葉をはるかに凌駕する人柄の人達。

それは、名の知られた比丘であるとは限らない。

誰にも知られていないような比丘。

街のきらびやかなお寺にいるのでもなく、修行者が集う瞑想寺にいるのでもない。

良く言えばこんなにも質素な、悪く言えばこんなにもみすぼらしい、ごくごく普通のありふれたお寺に、こんなに素晴らしい比丘がいる・・・。


こう言ったこともまた、そう珍しい話ではない。


・・・誰にも知られていないとは言いつつも、そんな人物の名は、それなりに近隣の村々には知れ渡っているのではあるが・・・


阿羅漢がいるのか、いないのかは私にはわからない。

わからないけれども、いてもおかしくはない世界だということは、出家生活の中で私が確かに感じたことである。


もしも、私が「タイには、阿羅漢はいるの?」と、誰かに尋ねられたとしたら・・・「いるかもしれない。」と、そう答えることだろう。




(『阿羅漢はいるの?』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
確かに東南アジアに行くと、高僧の誰々は阿羅漢だとか、預流以上に悟っているのは確実だなどという話を時々聞きますね。私には、誰が悟っているかなどということは分かるはずもないのですが、ミャンマーにも預流以上に悟っている人というのはいらっしゃるような気がします。昔、禅寺で「本当の人格者とは、案外、表舞台に出ることはなく、市井の中にひっそりと暮らしていたりするものだ」と聞いたことがあります。所謂、悟っているかどうかはわかりませんが、人格者って、案外、そんなものかもしれませんね。
以前、ミャンマーにいたイギリス人比丘がタイ国内の森林寺院を3ヶ月ほどかけて巡礼してきたのですが、その比丘から、タイでは悟った(とイギリス人比丘は言っていました)比丘に何人か出会うことができ、タイの森林僧院は修行するにはとても良い環境であることを教えてもらったことがあります。タイは、バンコクとアユタヤしか行ったことないのですが、いつかは森林僧院を巡礼してみたいと思っています。
それと、
霊験譚はミャンマーでも時々耳にします。瞑想中に空中浮遊していつのまにか樹上に移動していたという話も何度か聞きました。「そんなの嘘だろう」と言ったら、「見たという人がいる」と悲しい顔されて反駁されてしまいました。高僧ではありませんが、ミャンマーのチャイティーヨーにある落ちそうで落ちない岩「ゴールデンロック」は、仏陀の霊力により数ミリほど空中に浮いているという話も聞きます。ゴールデンロックに行くなら、実際に浮いているかどうか確かめて来てくれと頼まれてしまいましたし。ミャンマーには仏教の他に、ナッ神などの精霊信仰もあり、私の知らない霊験譚がまだまだありそうですね。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

日本では、ご自身で「悟っている」と仰っている方がいるようですが、テーラワーダ仏教的に考えると疑問を感じてしまいます。何かしらの結論に至ったという事なのでしょうけれども、それは仏教の悟りではありません。

ミャンマーでも、記事にあるようなお話があるのですね。その方が悟っているかどうかということは私にもわかりませんが、少なくとも、他者から見て悟りを感じさせる何かをお持ちになっておられる・・・そんな人柄の方ばかりのような気がします。

“「見たという人がいる」と悲しい顔をされて・・・”私も同じ経験があります。不思議な霊験譚を話される時の人々の顔が思わず目に浮かんでくるようです。なかには、私を実際にその場所へ連れて行って、案内と言うか、詳しく説明をしてくれたこともありました。話が嘘なのか本当なのか・・・やはり私にもわかりませんが、日本人は初めから「そんな話は嘘だ」と決めつけてしまうような見方に慣れてしまっているのかもしれませんね。いかにも仏教国らしいお話で、非常に興味深いものです。個人的には、もっと知りたいと思っています。

タイの森のお寺には、高僧や指導者というわけではない、ごくごく普通の比丘であっても、非常に穏やかで、柔和で、温和で、何事にも動じない、そのような人柄の方が多いように感じました。これは、ひとえに日々の生活の賜物なのでしょうね。

とても興味深いミャンマーのお話を聞かせていただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。