タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/01/03

いつも普段通りのタイのお寺

この時期になるといつも思い出すことがある。


日本のお寺は、年末年始のこの時期は大変忙しい。

・・・猫の手も借りたいくらい・・・そんな時期だ。


私は学生時代にとある大寺院の僧侶であった先輩から声をかけられ、先輩のお手伝い役として先輩のお寺で働いていた。

平たく表現するならば、先輩の“パシリ役”を引き受けたというわけだ。

先輩の部屋に住み込ませてもらい、そこから大学へ通った。

先輩の“パシリ役”と言っても、面倒見の良かった先輩のおかげで、苦痛と感じることはなく、とても楽しく過ごすことができた。


特に年末年始は、寺院の境内にある諸堂の掃除や正月準備などで大変忙しくなる。

12月31日の晩は、明け方近くまでさまざまなことに追われ、正月の10日頃までは気が休まることはない。


きっと今年も今頃は、大忙しに違いない。

学生時代の懐かい思い出である。


一方でタイのお寺では、年末年始に特別な行事というものはこれと言って何もない。

比丘は、いつも通りに、いつも通りの日課を送る。

いつも通りに托鉢へ出かける。

いつも通りの時間にいつも通りのお経を読む。

何ひとつ変わらない、いつも通りの生活を送る。


唯ひとつだけ、いつもと違うことがあるとすれば、朝の托鉢の際に、非常にたくさんのお布施があるということである。

単調な出家生活の中では、数少ない楽しみのひとつと言えるものなのかもしれない。


タイの一日はお布施で始まる。

同じく、タイの新年もお布施で始まるのである。


この点以外は、たとえお正月であったとしても、いつもと変わらない時間が流れる。


私は、どんな時であっても、いつも普段通りであるというタイのお寺の姿がとても好きだ。



~タイで購入した小冊子の挿絵より~



私は、チェンマイ市内のとあるお寺でお正月を過ごしたことがある。

年末が近づくと、その時のことを思い出すのである。


当時、同じお寺にいた仲良くなった比丘達が楽しげな表情をしながら私に声をかけてくれた。


「今夜の12時に花火があがるぞ。」


私は、微妙な表情を浮かべて、曖昧な返事をしたように思う。


・・・どうして私は、微妙な表情をしてしまったのだろうか。


それは、世間のことなどに流されてなるものかという強い思いがあったからだ。

年越しがちょっとしたお祭り騒ぎになるのは日本もタイも同じだ。

そんなことに浮かれるためにタイまで来たのではないという、非常に頑な心が現れたのである。


1月1日の午前0時・・・花火が打ち上げられた。


ドカーン、ドカーン・・・


花火の音が聞こえてくる。

それと同時に、私に声をかけてくれた比丘達が話す声が聞こえてきた。


まだ就寝していなかったようである。

どうやら、他の比丘達も花火を見ているようだ。


私は、部屋の中に閉じこもり、意地でも花火など見るものかと、寝床で横になりながら、なかなか眠りに就けなかったことを覚えている。


なんと頑なだったのだろうか。

失笑せざるを得ない。


意地でも花火など見るものかと歯を食いしばっている時点で、みんなで楽しく花火が見たいという私の心がありありとわかる。

本当に興味も関心もなければ、意地でも・・・などと思うはずもなく、「そうなんだね」で済むはずなのだ。


実に恥ずかしい。


12月31日から1月1日の午前0時を迎えると、あの時の花火の音とともに思い出す出来事だ。


タイのお寺のお正月は、普段通りである。

お正月も、仏教行事がある時も、大きくその生活が変わることはない。

どんな時も普段通り。


もしかすると、一見すると単調とも思えるそんなお寺の生活は、「私の心」というものをより見やすくしてくれているのかもしれないと思う。


心がザワっとしたその瞬間。

それは、自身の感情が動いた瞬間に他ならない・・・すなわち、何らかの心の方向性を示している。


興味、関心、願望、こだわり、執着、怒り、嫉妬・・・。


心がザワっとしたその瞬間をそのままにしておかずに、少しだけ自己を観ることに努めてみるべきだと思う。

どんな感情が観えてくるだろうか。

私は、それも広い意味で自己を知ることにつながるものであると思っている。

そうした自己の本当の姿をありのままに知ることで、次に採るべき最善の選択が見えてくるのである。


日本の日常生活は、あまりにも刺激が多く、そしてあまりにも刺激が強い。

とても心を観るなどという余裕はないのかもしれない。

しかし、少しだけ意識してみることで、次に採る行動の選択が大きく変わってくるのだということに、恥ずかしながら、最近になって気づくことができた。


あまりに頑なだったチェンマイ市内のお寺で過ごしていた時の私の姿であったが、その頑な私の姿を観ることができたからこそ、大切なことに気づくことができたように思う。

きっと、このエピソードは、この先も、お正月を迎えるたびに思い出すことだろう。


友人達と過ごしながら、大騒ぎをすることが楽しいと感じた時期もあった。

ところが不思議なことに、そういったことへの興味は全くなくなってしまった。


いつもの通りに、いつものように過ごす日々が、心穏やかで、幸せに思う。

いつも普段通りでいたい・・・そのように思う今日この頃である。


タイのお寺のように。



(『いつも普段通りのタイのお寺』)





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4 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。

ミャンマーのお寺の年末年始も、ただ、31日から1日に日付けが変わるだけです。
特別な行事はなにもありません。31日も1日もあっけなく過ぎていきます。
ただ、ミャンマーでも、街中では11月下旬頃から、ショッピングモールなどでクリスマスの飾り付けがされたり、ニューイヤーコンサートみたいな行事がおこなわれるようになってきました。(20年ほど前は、それこそ、一部の若者が騒ぐ程度だったのですがね。ミャンマーはここ数年、変化のスピードが加速しています。)

ミャンマーのお寺では、4月の水掛け祭り(ミャンマーではダジャンとかティンジャンと言います)の時期になると、瞑想修行に訪れる人が普段の何倍にも増え、一年のうちで最も賑やかになります。無論、賑やかといっても、訪れる人が増えるというだけで、歌舞音曲があるわけではありません。


 花火を見る見ないの話、よくわかります。
花火を見なかったとしても、心は既に「花火」に囚われているんですよね。
結局、花火を見るにしても見ないにしても、行動としてはどちらでもよくて、要は、「花火」に対する自分の心にきちんと気づいているかどうかが重要なのでしょうね。
 昨年、ミャンマーのお寺で修行していたときのことです。朝食時に、自分の食器に食べたい分量の料理を取り分けるのですが、ここまでが身体の維持に必要な量、ここからは身体の維持には必要ないけど、貪りの心で食べたいと思っている量というものがわかるときがあります。そこで、身体に必要な量だけ料理を取り、貪りの心で食べたい分は、ガマンして食べないようにしてみました。
このことを、指導僧に報告すると、貪りの心で食べたい分も、食べたかったら取りなさいと言われました。そして、その貪りの心をしっかりと観察しろと。
 翌日の食事から、貪りたい分も素直に食べてみて、そのときの心を観察するようにしてみました。すると、貪りの心もわかるのですが、同時に、やせ我慢ではなく、自然に、それほど貪りで食べたいとも思わなくなったり、逆に貪りたくなったり、貪った後で後悔したりと、心はその都度変化していくことにも気づきました。
 変にやせ我慢するくらいなら、貪りの心で食べたい分も素直に食べてみて、そのときの自分の心を正面からきちんと観察することのほうがいいのかもしれません。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

大変貴重なご指導であったと思います。まさにその通りですね・・・心とはその都度変化していくもので、その時その時の自分の心を正面からきちんと観察していくしかないのですよね。私は、日々の生活の中で、そうした心の変化や感情の変化を観察していくことができるようにと努めていますが、こうしたことを心掛けていくことで、自己を取り巻いている人間関係や環境などがより円滑になってくるように感じています。

ところが、私は、長らく日常生活の中でも実践していると思い込んではいたものの、どこかで「瞑想」として実践している時だけが“実践”だと思っていた部分がありました。しかし、それは、やっている“つもり”になっていただけで、全くそうではなかったのだということに、最近になってようやく気づかされました。実生活の中での自分の行為・行動、感情の変化などを全く観ることができていなかったわけです。

今、こうして花火に対する当時の自分の心を振り返ってみた時、実生活の中のあらゆる場面において同様のことが言えて、同様のことが当てはまるのだということがしっかりと理解できたように思いました。腑に落ちたということですね。・・・今更ながらで、大変お恥ずかしいことなのですが。

ひとつひとつ、全ての自身の行為に対して「意識的になる」ということがとても大切なのだと思うこの頃です。そして、それは出家であっても、在家であっても、全く変わらないと思うのです。これからも、少しずつしか進むことができないのかもしれませんが、しっかりと努めてまいりたいと思っています。

貴重なお話をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

貴重なお話ありがとうございます。
タイの仏教徒の生活にとても興味があるのでとてもありがたいです。
これからも陰ながら応援しております。<(_ _)>ペコリ

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

タイは、私が学んだ当時よりも、はるかに身近な国となりました。
また、とても旅行者に人気のある国でもあるようです。

タイの仏教徒から学ぶことはとてもたくさんあります。
そして、私たちの生活に活きること、また人生の糧となることがたくさんあります。
そのことは、今も変わらないと思っています。

今後ともよろしくお願いいたします。