タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2016/10/30

死の恐怖

最近、私が感じたことである。

ある闘病記を目にした。

赤裸々に綴られたその思い。

正直な気持ち、ありのままの感情・・・飾られていない言葉の数々。

それらが人々の心を揺さぶるのだろう。


実は、この他にも、闘病記を読んだことがある。

やはり大きく心を揺さぶられたことを記憶している。


また、ここ数か月、私に近い人達の身内の方が複数急逝された。

みな比較的若い人達ばかりだ。


私には直接関係がない人なのかもしれないが、あまりにも若いその死。

意識せずにはいられなかった。


その時・・・死というものへの漠然とした恐怖に襲われたのだ。


「死」に関しては、仏教の大学で学んだ私にとって、学生時代より何度となく聞かされてきた“テーマ”である。

いわば「慣れっこ」になっているものだ。


私達は、誰もが生まれながらにして「余命宣告」を受けている。

長く生きても80年、あるいは90年、どれだけ長く生きたとしても100年程度。

“それまで”には全ての人が必ず死ぬ。

所詮は、今日か明日か、朝か夕か、早いか遅いかの違いにしか過ぎないものだ。

老いも若きも男も女も、誰もが絶対に避けることができないこと。

例外なくやってくることであり、人生の中で唯一確実なこと。

それが「死」である。


・・・と、このようなことがらを学生の頃から何度となく聞かされてきた。

だから、突然聞かされたわけでもなく、驚くようなことでもないわけだ。

「死」というものがどういうものなのかは十分に理解しているつもりである。


しかし、どうだろうか。

もしも・・・「おまえは明日死ぬぞ」と言われれば、正気でいることなどできようか。

どこかで私だけは死ぬことなどないと思ってはいないだろうか。

そう、頭の中では“当然”の理であったとしても、所詮は他人事でしかなく、机上のものでしかないということである。

紛れもなく単なる知識であって“智慧”ではないという証だ。


私事として考えてみれば、やはり「死」は恐い。

自分自身と重ねてみるとその恐怖は一層増大する。

おびえたところで仕方のないことがらにおびえてしまうのだ。

・・・では、一体何におびえるのだろうか。


それは、まだ見ぬもの、どのようなことが待っているのか、その先はどうなってしまうのか、全くその得体のわからないことに対してであろう。


これは「生きる」ということへの執着、自己の「身体」への執着、そして「死」というものへの無知と「わからない」ことへの不安から来るものなのではないだろうか。



~私の師からいただいた写真~
この写真を観ながら自己の身体を観じ、生死を観じよということなのだろう。
「これは、あなたが持っていた方がいいですね。必要に応じて眺めるといい。」・・・そのように言って、私へと手渡してくれたものである。



タイには、身体を観察したり、死体を観察したりするという修行法がある。

自身の身体、すなわちこの身のありのままの姿を直視していくという修行で、不浄観と呼ばれる。


『そうすることで(不浄観を修することで)、悪しき行為から離れ、放逸で恐れのない心を育てるのである。』(※1)

『外面的な姿に心を奪われることから離れ、人が身体を有するがゆえに体験せざるを得ない苦しみが生じるということ観察していくことで、心の平静を育てるのである。』(※2)


私は、出家中にその不浄観を修する機会に恵まれた。

バンコクのある大きな病院だった。

一緒にいた先輩比丘の話によると、医学解剖なのだという。

目の前に並べられたいくつかの死体。

腹部が開かれているものもある。

すぐ目の前にあるものが私の身体の中にも入っているのだ。

これだけ目の前に自分の中にあるものと同じであろう不浄なるものを見せつけられたとしても、どうしても私のこととして考えることができなかったことをよく記憶している。


『人間として生まれてきた誰もが出会わなければならない事実、それが「死」であり、その出会いを最善なものとするためには何をすべきなのか、そのことを良く知らなければなりません。

「私は、死を喜ばず、生を喜ばず、正しく知り正しく思って、時の至るのを待つのみである。」』
(※3)


・・・「死を喜ばず、生を喜ばず、正しく知り、正しく思って、時の至るのを待つのみである」

まさにこれが死の本当の姿であり、生の本当の姿であるのではないかと私は思う。

そのことに思いを巡らせた時、ほんの少しだけ恐怖から離れ、わずかな穏やかさが私の心に訪れたように感じた。


この事実とこの表現。

日本人にとって、「冷たい」と感じるのか、それとも「真理」だと感じるのか・・・。


私がかの時を迎えたまさにその時、果たしてどのようになるのだろうか。


いくらこのような“真理”を知ったからと言っても、やはり不安であり、恐怖だ。


その不安と恐怖に襲われない道があるとすれば、それはサティを保つこと・・・すなわち、自己の「洞察」であり、「気づき」であると思う。

これが揺るぎない心の穏やかさへの唯一の道であると私は思っている。


死の恐怖から離れるということは、そうそう容易なことではない。

しかし、死というものの本当の姿を知ったうえで、恐怖を感じている自己を洞察し、その都度、その都度、穏やかな心を育てていくことに努めていくしかないのではないか。

この心を育てていくことこそが、心の穏やかさを育てていくことに他ならないのではないだろうかと思う。


私の身近なところで出会った「死」にまつわる出来事。

そうした出来事から私が感じたことである。


「今」の心を整えることは未来を整えることである。

「今」を善く生きれば、未来も必ず善きものとなる。


「今」できることに全力を尽くし、最善を生きる。

私は、死の恐怖を越えることもまた、やはりこれしかないのではないかと思っている。





◎参考文献

『テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの受具足戒・比丘マニュアル』
落合隆 訳・編纂 中山書房仏書林 2014年

※1、『テーラワーダ仏教の出家作法』71頁より引用
※2、『同』100頁より引用
※3、『同』105頁より引用


〇『テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの受具足戒・比丘マニュアル』・・・この書籍は、タイサンガにおける出家作法や出家式の際に交わされる問答についての解説に加えて、出家に際して心得ておくべきことがらのひとつとして、身体の観察に関して詳しく解説されている。
どのような意義があり、どのような心構えで臨むべきなのか、またどのような事柄を心がけるべきなのかなどが解説されており、非常に深い学びを得ることのできる一冊である。



〇次回は、関連記事『死を直視する~不浄観~』、『死体の写真と煩悩』を順に再掲載していく予定です。



(『死の恐怖』)





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4 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

こんにちは。

写真ではありませんが、タイのお寺で日本の九相詩絵巻のような、死体が段階的に朽ち果てていき最後には犬によってばらばらにされていく様子を描いた絵を見たことがあります。
私はアチャーン・チャーの西洋人第一弟子のAjahn Sumedhoの著書、”The Mind and the Way”という本で初めて知りました。60−70年代のことと思いますが何度か病院で死体を前に瞑想(あるいは観察)をしたことがあるそうで、一度は運河に一週間浸かって真っ黒に変色・膨張してものすごい悪臭を放ち、目や鼻から蛆がこぼれ落ちてくる腐乱死体を前に瞑想したこともあるそうです(当然腐乱死体に向かって足を踏み出すには相当な意志力を要したそうです)。またプラユキ・ナラテボー師の著書、『「気づきの瞑想」を生きる』にも不浄観に関する記述があったと覚えています。

先月訪れたワット・パ−・ナナチャーットには瞑想ホールにガラスのケースに入った人の全身の骨格が頭から吊られて展示されていました。ワット・ノーンパーポンにもあるそうです。その骨格標本を献体した女性の葬儀に使われたと思える遺影が一緒に陳列されていたのが何とも生々しかったです。またワット・パ−・ナナチャーットそのものがかつて森の火葬場があったところに建てられたと聞いています。音声しかないのでビジュアルにはわかりませんし、死後一週間の在家の女性の遺体を前にワット・ノーンパーポンの英国の分院、Amaravatiで住職のAjahn Amaroが説法を説いている法話を聞いたこともあります。また70年代にVarapanyo Bhikkhuとしてアチャーン・チャーの下で5年間修業を受けたアメリカ人のPaul Breiter氏はチャー師に促されてかつて遺体を包むのに使われた布でつくった袈裟で身をまとったことがあると著書”Venerable Father”で告白しています。強制はされなかった反面、誰にでも勧められることではないと言われたのと洗濯はされてあったそうですが。それにしても徹底していますよね。

私も詳しくは知りませんが不浄観というのはタイ語でモラナーサティ(มรณาสติ)、あるいはモラナーヌサティ(มรณานุสติ)と呼ばれている瞑想法のことではないでしょうか。広義には西洋のメメント・モリのように単に「死を想え」という意味合いも含まれているのでしょうか。
釈迦の時代には墓場や火葬場で瞑想したということを聞いたことがありますが、釈迦がアーナンダに一日何回死を想起するかと尋ねたとき、7回と答えたアーナンダに対して「アーナンダよ、おまえは無頓着すぎる。我々は呼吸する度に死を思い起こさなければならない」と言い放った言い伝えがあるそうですね(下記動画参照)。

ちなみに下の動画の映像の死体は実際にチョンブリー県、シーチャン島のお寺で見れるようで、"meditation object”として使われているということを聞きました。
https://www.youtube.com/watch?v=oBIMRCRh_Xs&t=156s

ワット・パー・スカトーの住職、パイサーン・ウィサロー師によるとモラナーヌサティは釈迦の時代から伝わる40の瞑想法の一つだそうで在家信者にも奨励しているようですが「死の練習」、具体的にどういう手法を伴うのかはわかりませんが「死ぬ前に死ぬ」練習(”ตายก่อนตาย”)を指導しているそうです(但し必ずしも死体を観察しなければならないことはないそうです)。

https://www.youtube.com/watch?v=iOADcD_GP0s

ところで病院の霊安室や解剖室で遺体を観察することはタイでは僧侶である限り国公立の病院であれば原則どこでも許可されると聞いたことがありますが(本当でしょうか?)、一般人・在家の人はどうなんでしょう?。たとえ身寄りのない、行き倒れの人であったとしても死者の尊厳に対する配慮はあるでしょうから、病院が霊安室を一般人にまで開放することはないと思いますが、在家の人でも実践できるところはどこかにないものでしょうか。

Ito Masakazu さんのコメント...

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

日本人からすれば異様とも言えるものですが、ご存知の通りタイではそれ程驚くものではありません。他の記事でも紹介させていただいていますが、腐った死体の写真をはじめ、髑髏や骸骨の写真などは、修行寺へ行けばごく普通に飾られています(全てではありませんが)。日本のお寺では全く考えられないことですが、タイのお寺では特に驚くべきことがらではありません。比丘の修行法としてごく普通に認識されているもので、約40種類ほどあるサマタ瞑想のうちのひとつです。

さて、なぜ死者の尊厳というものを越えて、出家者に死体となったその身体をさらしたり、その写真が公開されるようなことがあるのでしょうか。また、なぜそうした場が抵抗感なく提供されるのでしょうか。
それは、一言で言えば「仏教の修行」のためだからで、仏教と出家者に対する「敬意」、また自身の「徳」のためです。仏道(修行)の手助けをすることは、自らの徳を積む行為ともなるものだからです。そして瞑想を実践する側は真剣に修行することで、死体となっている彼により多くの徳を積ませてあげることにつながるからです。身体の提供者は、仏教のため、出家者のため、そして自分自身のためで、人生最後の徳積みなのです。だからこそ出家者に対して自ら進んでこうした場の提供を申し出る者がいるのであって、世間においても認められているのです。・・・私の理解も加えて記載していますが、おおむね私はこのようにお世話になった師から聞いています。

病院ですから一般人に開放されることはありません。比丘の修行だからこそ許されていることです。それは上記の通りの価値観のもとに成立していることです。もし、在家の身でこうした修行を実践する機会があるとすれば、お寺へ行ってそうした写真を見て瞑想することでしょう。あるいは、そうした機会に「同席」させてもらうくらいかと思います。私の時も数名の在家の同席者(寺院関係者としてですが)がいました。
常に死を想うことはとても大切なことで、繰り返し行うべき事柄であるかとは思いますが、かと言って、敢えて死体を観る必要もないものと私は思います。どうしても実践したいということでしたら、タイででも、日本ででも、火葬場へでも行って火葬の風景や煙を眺めたり、葬送の行列や墓場・墓石の風景などを眺めたりしながら無常を瞑想すればよいのではないかと思います。日常生活の中でも本気でやろうと思うのであれば、どのような形ででも“死を想うこと”や“死の練習”は可能です。
記事にも書きましたが、まずはごく身近なところができていないと、たとえ本物の死体を目にしたところで全く無意味です。所詮は他人事だからです。驚くほど他人事です。もっとも、個人によって心の段階はそれぞれですから、一概には言えませんけれども。これは、あくまでも私の所感であり、見解です。参考にしていただくことができましたら幸いです。

なお、不浄観の意義について『テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの受具足戒・比丘マニュアル』中山書房仏書林 という書籍の後半部分に詳しく解説してあります。おそらく非常に深い学びとなるものと思われますので、もしお持ちでないようでしたら、ぜひご一読されることをおすすめしたいと思います。数日あれば読める程のものです。

コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

Unknown さんのコメント...

詳細な解説をありがとうございます。

仰せの通りモラナーヌサティを実践する上で必ずしも死体を観察する必要はないことと日常生活の中で常に死を想うべきことはワット・パー・スカートーのパイサーン・ウィサロー師も在家信者向けの法話で幾度となく説いていました。(例えば大切なモノを損失して喪失感を感じた時も死を想えと)。「驚くほど他人事」であるのは確かにそうかもしれなく、ヨーロッパのカタコンベでペスト犠牲者の大量の遺骨や聖職者のミイラ化した遺体を見たことがありますが無常は感じられても視点はツーリストのそれで冷めていたと思います。

つい最近もこちらで友人の家族の葬儀に参列したばかりですが頼まれて葬儀の様子を撮影している最中、火葬場の祭壇の後ろの炉にカメラを向けたら意図はわかりませんが中を写したいかと職員に聞かれ、一旦は断ったものの念を押されたのでそれならとお願いして扉を開けてもらいどこの誰とも知らぬ故人の火葬の様子を拝見させてもらいましたが死そのものを強く想起させることはありませんでした(多分終わりかけていたのと眩しくて裸眼ではよく見えなかったのですが)。またこちらでは日本と違って炉に入る直前、お棺を開けて故人と最後の対面をしますが葬儀の際も遺体となった故人に対して以上に故人と今生の別れとなる肉親(友人)の悲嘆によりアニッチャン、トゥッカン、アナッターを感じたかもしれません。

モラナーヌサティに興味あるのは幼少の頃から強く感じていた死に対する恐怖が根底にあって克服したいからですが中年になってだいぶ薄れてきた今も自分という存在がいずれ消滅し忘れ去られてしまうことに対しいいしれぬ寂しさを感じます。今まで快適、無為で怠惰な人生を過ごしてきただけに残された人生を如何に豊かで有意義に過ごすかは今後の大きなテーマであると考えていますが、五戒は守っていても普段怠惰で情熱も決意も持ち合わせず瞑想も気分次第という私には遺体でも前にしなければ真剣に取り組めないのではと思ったからです。ワット・ノンパーポンの英国分院Amaravatiでは数年前に住職Ajahn Amaroの指導の下、”Death and Dying”というテーマで7日間の瞑想合宿を行ったことがあるようでその際の指導や法話が全てポッドキャストとして配信されていて(英語)パソコンやスマホ、タブレットなどにダウンロード、またはストリーミングで聴けるようになっているので私も聞いてみたく思っています。タイでもそういうテーマで瞑想合宿をやっていれば是非参加してみたいですね。

「テーラワーダ仏教の出家作法」、ご紹介ありがとうございます。日本のアマゾンでは扱っていないので紀伊國屋書店バンコク支店に問い合わせたら書店でも取り扱いがなく、ISBN#から調べてもらったらタイではチェンマイのWat Phraputthabat Tamo(วัดพระพุทธบาทตะเมาะ)というお寺で施本として配布されているということがわかりました。すぐお寺に電話をして用件を伝えたところ驚いたことに著者がそこにいるというので電話を代わってもらい著者の落合隆氏(落合隆師?)と直接言葉を交わしてお願いした次第です。大変ありがたいことにできるだけ多くの人に読んでもらうことが務めと言わんばかりに快くバンコクまで郵送していただける運びとなりました。またチェンマイを訪れたときは遊びにいらしてくださいとお誘い受けたので機会ありましたら是非そうさせて欲しい旨をお伝えしました。読みたい動機を聞かれたので本ブログを伝えたらすぐIto様のお名前が出てきました。これもIto様のブンですね。ありがとうございます。

Ito Masakazu さんのコメント...

Jun Ikeda 様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

いくら死体を目の前にしたとしても、また少しばかり極端な修行法を実践してみたとしても、心がその段階にまで育っていなければ結局は“元の木阿弥”です。仮に、死体を目の前にして瞑想を実践する機会に恵まれたとしても、ご旅行の際に感じられた感覚やご友人のご葬儀の際に感じられた感覚などと同様に「驚くほど他人事」である私自身を再認識されるだけかと思います。
コメントにいただきましたように、タイではこの種の法話がとても盛んであり、仏教の説く真理に従ってよく理解もされています。在家の方々の中にも十分に心得ている人達がたくさんいます。この点がタイは敬虔な仏教国であると重ねて深く尊敬の念を抱くところです。こうした背景もあってか、葬儀の風景や火葬の風景などを直接見ることのできる機会も、日本よりもはるかに多いように思われます。日本のように悲しみ一色で、できる限り見せないようにしたり(見ようとしないようにしたり)、死とは忌み嫌うべきものという感覚は全く感じられず、死も生活(人生)の一部であり、非常にさっぱりとしたものだと感じたことがあります。

ところで、すでにご存知かとは思いますが、以前のブログの記事の中で紹介させていただいている動画をご覧になるとおわかりになられるかと思いますが、とても真剣に仏法を学ぼうとする人々は、出家・在家を問わず非常に多いのです。その風景が非常によく伝わって来る動画でしたのでアップされている方へリンクをお願いさせていただき、私のブログで紹介をさせていただいています。

『動画のご紹介「死・それは命の最後の授業」』
https://tekutekubukkyou.blogspot.jp/2017/05/blog-post_9.html

これは、「死」というもの、すなわち生きたダンマを知り、学ぶ機会そのものが少ない日本人にとっては、非常に大きな学びとなるものであると感じました。

「五戒は守っていても、普段怠惰で情熱も決意も持ち合わせず瞑想も気分次第」というのは私も同様です。そのような私の人生をどのように生きていくのか・・・それが課題となるのでしょうね。

コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。