タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2016/04/04

バンコクと東京と

先日、久方ぶりに東京の地を踏んだ。

数年に一度しか乗る機会のない新幹線。
数年に一度しか行く機会のない東京。

私にとって東京とは、花の都だ。
そして、非日常の世界だ。

東京にお住まいの方からすれば、なんとも可笑しなことに思われるのかもしれないが。


私は、田舎育ちだ。

今は、実家から少しだけ離れた“街”に住んでいる。
私の生まれ育った実家から見れば間違いなく“街”なのだ。

しかし、東京から見れば、そんな“街”もただの寂れた田舎でしかない。
東京の、ほんの足元にすら及ばない、片田舎の町だ。

私は、今、そんな地方の町で働き、生活をしている。


久しぶりに東京の空気を吸った私は、思わず「刺激が強い」と感じた。
なんといっても、人の多さに圧倒されてしまう。

長らく感じたことのなかった感覚。

・・・タイで感じたあの時の感覚と重なった。


タイで感じたあの時の感覚・・・。


それは、森の寺からバンコクへと出てきた時に感じたあの感覚だ・・・東京の地に立った時、そのように感じたのであった。


静寂の空間である森の寺。
穏やかに、そしてゆっくりと時が流れる森の寺。

人も穏やか、時間も穏やか、耳に入ってくる音は自然の音ばかり。

そんな環境に囲まれていると、気持ちもいつのまにか穏やかになってくる。

人は、知らず知らずのうちに周囲の環境に影響されてくるものだ。


ところが、そんな穏やかなる森の寺に止住し、少しばかりその生活に慣れてくると、逆に“刺激”が欲しくなってくるのであった。

すなわちそれは、長らく慣れ親しんだ在俗生活の刺激がまだまだ恋しいということなのだろう。

だが、いざバンコクへと出てみると、その刺激の強さに驚かされ、すぐに疲れ果ててしまうのであった。


森の寺に住することに慣れてくると、こうしたちょっとした心の動きというものに敏感になってくる。
それは、瞑想の効果でもあり、森の寺という環境の効果でもあるのだろう。


そして、逆に、森の寺へと帰ってきた時もまた同様に、バンコクで受けた刺激に影響され、しばらくの間は心がざわつき、大いに乱されてしまうのであった。


・・・「刺激の強さ」とは、具体的にどのようなものなのだろうか?
残念ながら、それを上手く言葉にすることができない。


人の多さであったり、人の雑踏であったり、さまざまな騒音であったり、立ち並ぶビルの景色であったり・・・あるいは、目に入る大都会の“もの”であったり、道行く美しい“女性”であったりもするのだろう。

どれも“刺激的”な景色ではないだろうか。

こうしてタイにいた当時のことを回顧しながら書いている今となっては、“刺激の強さ”ということだけが強烈な記憶として残っているだけで、具体的に何かと問われても、やはりうまく答えることができない。


~タイで購入した絵葉書より~
美しいバンコクの景色。
私と同じく田舎で育った人達が大都会・バンコクと接した時、一体何を感じるのだろう。
私と同じ感覚を覚えたタイの人達は、果たしているのだろうか・・・

 
新幹線に乗り、家路についた。

たったの数時間で自宅の敷居をまたぐことができる。
改めて考えてみると、これは驚きだ。


ふと、いつかどこかで聴いた法話が頭に浮かんだ。

『少しでも忙しくなくそうとしているのに、結果は逆で、かえって忙しくしているのです。』

・・・まさにそうだと思った。


新幹線は、時間を格段に節約してくれている。
確実に便利になった。

しかし、そのぶん忙しくなくなったのかと問われれば、実はそうではない。
時間を短縮できたぶん、また別のことに時間を費やし、さらに忙しくしているのではないか。

結果は、むしろ「逆」。
忙しくなくすのではなく、以前よりももっと忙しくしているのだ。


よく考えてみれば、さまざまな分野においてどんどんと便利にはなっているが、全てにこのことが当てはまるのではないだろうか。


今後、便利になっていくスピードは、さらに加速していくことだろう。

一体、人間はどんな方向へと向かっていくのだろうか・・・。


そんな一抹の不安を感じたのであったが、実は、本質的には今も昔もこの先も、全く変わらないのかもしれないと思った。


世の中は、人間の願望に従って便利になってきた。

しかし、苦しみの“本質”は何ひとつ変わっていないのではないか。


ブッダの時代を生きた人々の苦しみも、現代に生きる人々の苦しみも。

形は違えど、本質的には同じだ。
何も変わらない。


そう考えると、一抹の不安は、少しばかりの滑稽さへと変わった。


東京駅・丸の内北口付近にて撮影。
東京の高層ビル群のシルエットもまた美しい。
私の日常生活の中では見ることのできない景色である。


自宅に戻り、ほっと一息つきながら・・・東京の余韻がまだ残るなか・・・そのようなことを考えた。


日本全国どこへ行ってもそれほど大差はないと思い込んでいた。

そんな日本で、森の寺からバンコクへと出てきた時に感じたあの時の感覚と同じ感覚を味わったことに、少しばかりの懐かしさを感じた。


嗚呼、あの時の感覚だ・・・と。


どうやら、東京の空気は、私にとっては少々刺激が強過ぎたようである。


おのぼりさんのひとりごととして笑って受け取っていただければと思う。



(『バンコクと東京と』)





≪図書ご紹介≫


私が上座仏教と初めて触れたのは、大学で開講されていた佐々木教悟教授の講義の時であった。
上座仏教の「教義」が学びたいと思った私は、大いに期待をして受講した。

しかし、結果としては、私のその期待を十分に満たすものではなかったのだが、南伝仏教研究の第一人者として著名であった教授の講義は非常に面白かった。

教授がタイで出家をされた時の記念写真(モノクロでとても古いものだった)やタイの“お守り”である小仏像、タイの瞑想風景の写真などを講義の中で学生達に見せてくださった。
今でもその時のことを記憶しているのであるから、相当にインパクトがあったに違いない。

今なら教授に質問したいこと、議論を交わしたいことが山ほどある。
もっともっと真剣に講義を受けておけばよかったと悔む気持ちがある一方で、教授のことが、そしてあの当時の講義ことがとても懐かしくてたまらない。

下記の図書は、その佐々木教悟教授の著書のひとつである。

学術的にタイ仏教全般について詳しく研究され、よくまとめられている。
専門書で一般向けの書籍ではないが、タイ仏教に興味のある方にとっては、有意義な書籍ではないかと思う。

しかしながら、1986年(昭和61年)8月20日の発行で、決して新しくはないが学術書であるがゆえに、プレミアがついているようである。


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4 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

 私が働き始めた頃、ちょうどオフィスオートメーションが叫ばれ始めていました。いわゆるOA機器なるものが進化してきて、これからは、謄写版印刷、青焼きコピーや書類綴じなどの単純作業に時間を割かれることなく、よりクリエイティブな仕事に時間が振り向けられ、仕事に余裕も出てくるなどと言われたものです。確かに、青焼きコピーや手作業での書類綴じなどの作業は激減しましたが、クリエイティブな業務により時間が割けたわけでも、ゆとりが持てたわけでもありませんでした。

 ワープロの登場により、今までは、手書き原稿を作成すれば、後は印刷屋に丸投げだったレイアウトやデザインなどの作業も、細部までこちらで行えるようになり、かえって余計な業務が増えてしまいました。印刷屋さんの仕事を奪ってしまったとも言えるかもしれません。

 さらにパソコンの普及で、電子メールや表作成ソフトなどを利用するようになると、資料作成にも従来のようなシンプルなものから、表やグラフを入れ込んだ、より凝った表現を求めるようになり、結局資料づくりの時間は増加したかもしれません。

 単純業務に費やす時間は減った面は否定しませんが、逆に業務の種類は増える一方で、ゆとりがあったり、考える時間が増えたとは思えません。

 結局、1つの苦を他の苦で置き換えているだけかもしれませんね。

 人間って、つねに何かやっていないと落ち着かない存在なのかもと思ってしまいます。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

 「ひとつの苦を他の苦で置き換えているだけ」・・・私も、まさにこの表現がぴったりだと思います。身近なことひとつとってみても、余裕やゆとりを作るはずだったものが、気がついてみれば、全く逆の結果になっているということは少々皮肉にも思えますね。

 文明の発展、科学の発展云々と、さも現代人がすごいかのように言われています。確かに、今こうしてお世話になっているPCもとても高度な技術で“すごい”わけですが、実は人間の抱えている「苦しみ」については、何ひとつ減ってもいなければ、何ひとつ解決もされてはいないように思います。

 ブッダの時代の苦しみと今の時代の苦しみとは、一見すると全く別物のように思えるのですが、よくよく考えてみれば、実は全く同じなんですよね。逆を言えば、その苦しみの越え方もブッダの時代に示されたものが、現代においても“苦しみの越え方”として全く同じだということなんですよね。それが、はるか昔から現代に至るまで、そしてこの先もずっと変わることのない「真理」というものなのでしょうし、真理が真理たる証なのでしょう。

 私は、そのように考えた時、ますます仏教への確信といいますか、やっぱり間違っていないんだという堅固な気持ちになってくるような気がします。

 貴重なコメントをいただきまして本当にありがとうございました。

 今後ともよろしくお願いいたします。

Unknown さんのコメント...

先程コメントした者です。お忙しい中恐れ入ります。ワット•パーポンで出家したく考えております。いくつか知りたいことがあり、それと何かアドバイスがあればいただきたく思っています。
それと、先程礼儀を欠いた文面をお送りしているかもしれませんが、よろしくお願いします。
お暇があれば、先程のせましたメールアドレスにご返信いただければ、ありがたいです。

Ito Masakazu さんのコメント...

徳山栄哲様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

メールを送信させていただきましたので、以後メールにてご連絡いただきますようお願いいたします。
お気軽にご連絡いただければ幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。