タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2024/03/19

タイの数珠を使った瞑想再考

タイには、数珠を使った瞑想方法が存在するということは、以前にも記事としてまとめている(関連記事を参照)。


数珠というのは、元来は、真言の数をかぞえるための道具であり、いわゆるカウンターの役割を果たすものだ。


しかし、上座仏教における数珠を使った瞑想では、数をとることはしない。


タイでは、具体的に数珠を使ってどのように瞑想していくのかと言えば、心を集中させていくための“きっかけ”として数珠を使うのである。



ゆえに私は、以前の記事では数珠のことを『瞑想の小道具』であると表現している。



タイの数珠も玉の数は、一応は108つあるが、『数える』ということに大きな意味があるわけではないし、108という数字にも瞑想上の意味はない。


『瞑想の小道具』という役割から言えば、108でなくてもよいわけである。


とは言え、やはり玉の数を108としてしているのだから、何らかの意味やルーツがあるものと思われるが、残念ながらそこまで調べることができなかった。







数珠を使った瞑想方法には、非常にたくさんのバリエーションがある。


その一例を挙げると、数珠を繰りながら、呼吸の回数を数えていくという方法がある。


これは、すでに触れた通り、回数そのものに意味はなく、数字へと注意を向ける。


あるいは、かぞえるという行為そのものに瞑想上の意味はないが、“かぞえる”という“行為”へと注意を向けながら集中させていくという方法だ。



また、プットー、プットー・・・と唱えながら数珠を繰っていく『プットー瞑想』と組み合わせた方法がある。


プットーと唱えるだけで十分だろうと思う人もいるかもしれないが、心が騒々しい時や散漫になっている時などに特に効果を発揮する。


あえて“数珠を繰る”という動作を加えることで、より注意を向けやすくして、強く思考や感情から離して集中させていくことができる。



これらの瞑想方法は、静かに坐して実践しても構わないし、歩いて実践する、いわゆる歩行瞑想のような形で実践してもよい。


実際に坐す瞑想と歩く瞑想とを組み合わせて実践されることが多い。



その他、工夫次第で、数珠はさまざまな使い方が可能である。



呼吸や『プットー』という言葉に“数珠を繰る”という動作を加えることで、思考や感情から離れ、意識を集中させていきやすくするというのが数珠を使った瞑想方法の大きな利点であると言える。








ここまでは、心を集中させていくサマタとしての瞑想という意味合いが濃いものとなるが、数珠を繰りながら指先の感覚そのものを観察をしていくという方向性であれば、ヴィパッサナーの瞑想としての意味合いが濃い使い方となる。


数珠を繰っている感覚に『気づき』を向けて、ひとつひとつ細かく丁寧に観察していくことで、数珠の玉と指先とが触れているその感触や感覚の変化を観ていくのである。


すなわち、『指の瞑想』と全く同じ要領、同じ意味合いであり、どのような時であっても、どのような場所であっても、『気づき』を育てながら、『気づき』をよく維持していくための手段のひとつとしての使い方だ。



先ほども触れた通り、数珠を使った瞑想では、玉の数そのものには瞑想上の意味は持たないため、他のものであっても十分に代用が可能である。


たとえば、身近にあるブレスレットを使えば、大変手軽に数珠を使った瞑想の実践ができる。


近年、身につけている人も多くみられ、より身近な存在で、親しみのある物品のひとつではないだろうか。


よく“手持ち無沙汰”から、手にしたものを“いじる”あの行為をほんの少しだけ工夫すれば、立派な瞑想の実践となる。



それだけではなく、さらに多方面へと応用していくことが可能だ。



手に持つことができるものであれば、目の前にあるものはどのようなものであっても瞑想していくことができるだろう。


“手持ち無沙汰”で暇を持て余すこともなくなる。


ペンで実践することもできるし、スマートフォンをタップするその瞬間に『気づき』、瞑想していくことも可能だ。



本人のやる気次第で、どれだけでも広げていくことができるのである。



このように数珠を使った瞑想は、いつでも、どこでも、如何なる時であろうとも『気づき』を育て、よく保つことを磨いていくための手段のひとつなのである。


心の状態は、いつも同じとは限らないし、ましていつもおだやかであるとは限らない。


むしろ、いつも荒波であり、いつも濁流であり、大いに乱れていることの方がはるかに多い。



現在では、ある特定の瞑想方法のみを専修していくことが主流となっているが、おそらく元来はそうではなかったのであろう。


実際に、その時々・・・その場、その状況、その環境に応じて、数珠を用いた瞑想方法を含めて、いろいろな方法を組み合わせながら、心を落ち着けていき、『気づき』を保ちながらその力を高めていくことが、森の僧院などでは推奨され実践されている。


こうした実践方法は、現在のタイでは、ごく一部の修行寺や森の僧院でしか実践されていない少数派の瞑想方法ではあるが、上座仏教における数珠の歴史の問題はともかく、近代に入ってから創始された体系だった瞑想法が隆盛する以前は、このような細々とした非常に地道な瞑想法が脈々と受け継がれ、実践されてきたのではないだろうかと推測している。


数珠を使った瞑想法は、あくまでも瞑想の入り口としてのものであるので、心がよくと調い、『気づき』の力がしっかりと育てられてきたら、さらに高度な瞑想へと進んでいくというのがその筋道となるのだろう。








これは、私の経験を踏まえた所感にはなるが、実社会のなかを生きる私たちにとっては、なかなか静かな環境を得ることが難しいばかりでなく、『気づき』の力を高めていくことさえも難しい。



私は、実生活のなかでは、その時の心の状況に応じて対応していくこうしたやり方も、十分に意義があるものと感じているし、むしろ適しているのはないかとさえ感じている。



ある特定の瞑想方法のみを専修していく方法ももちろん良いと思う。


それぞれに合った瞑想方法を実践し、それぞれに応じた継続方法を選んでいけばよいのである。




【註】

※マハーシ式の瞑想方法を採用している瞑想センターや僧院などでは、数珠を用いること自体を禁じているところもある。

※近代以降に創始された瞑想方法では、数珠を使うことはない。よって、そうした瞑想方法を採用する瞑想センターや僧院でも、数珠を用いることを禁じていることが多い。

※バンコクを中心とするタイ中央部では、数珠の使用はほとんど見られない。タイ北部(チェンマイ地方)やタイ東北部(イサーン地方)などで見られるにとどまる。




【関連記事】


『数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~』

(2023年05月19日掲載)


『瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~』

(2017年06月04日掲載)


『タイのお坊さんは数珠を持たない』

(2012年07月03日掲載)


『アーナパーナサティ』

※プットー瞑想について記載

(2010年05月17日掲載)




※動画・YouTube



※動画・YouTube





(『タイの数珠を使った瞑想再考』)





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2024/03/09

日本人瞑想修行者には気をつけろ!?

日本人出家者や日本人瞑想修行者は、基本的に“特長的な”人が多い傾向にある。


“特長的”と書くと些か“変人”のような印象を受けるのであるが、そうではなくて非常にユニークな性格の持ち主であるということで、そこに悪意はない。


何万人に一人の人物だからこそ、突出した偉人にもなるのである。



なぜこのようなことを記すのかと言えば、やはりはじめからそのような姿勢でもって接する方が互いにとって瞑想修行の妨げにならず、またなによりスムーズな人間関係が築けるのではないかと感じるからだ。


日本人同士であるがゆえに、言葉も通じやすいし、心も通じやすい。


この点が実は、盲点で、十分な注意が必要なのだ。



瞑想修行者同士で仲良くなり過ぎても望ましくはないし、逆に瞑想修行者同士で不仲になり過ぎてもやはり望ましくない。


当人同士の関係は、当人同士の問題ではあるが、周囲への影響が及びやすく、他者に迷惑をかけることもあるからだ。


日本人瞑想修行者たちは、良きにしろ悪きにしろ“特長的な”人が多いがゆえに、意気投合すれば極端に仲良くなりがちであるし、意見が合わなかったり性格が合わなかったりすれば、徹底して仲が悪くなってしまう傾向がある。


ここは悪意や嫌味を含む意味で受け取っていただきたくはないところだが、“特長的な人”であるがゆえに、接し方が難しいことがままある。


互いの崇高な哲学を犯してしまいがちになるからだ。



ここはタイだ。


ぜひとも学びの機会を最大限に活かしたい。


仏法を学び、瞑想を実践し、修学するために、はるばる遠くタイまで来ている意味がなくなってしまわないように十二分に注意をしたいところである。



何事も『中道』が肝要だ。



修行者としての情報交換や励まし合いは必要なことであると思うが、つかず離れずの適度な関係を保つ心がけは常に持っておくべきだろう。








日本では、一般的に仏教や宗教に興味を持つ人間は極めて少数だ。


さらに仏教の実践行たる瞑想に興味を持つ人間となると、その少数派のなかでもなお一層少数となる。


その時点で、日本における平均的なタイプの人間からは逸脱しているのだ。


大部分の日本人に浸透している価値観や常識とは、少しばかり次元を異にしているというわけである。



一方で、同じ瞑想修行者であっても、タイ人の場合は、決して“特長的な人”というわけではない。


タイ人にとっては、ごく普通である。


なぜならば、説明するまでもないことであるが、国民の大多数の人たちが仏教というものに価値を置いており、仏教に対する興味や関心を有しているというのがごく平均的な国民のあり方だからだ。


ゆえに、瞑想に関心を寄せる人たちが、褒められるべき素晴らしい行いの人たちだと言われることはあっても、特段珍しい人というわけでも、“特長的な人”というわけでもない、まして“変な人”であるということなどないのである。


これは、男性も、女性も、同じことが言える。



私を含めた日本人瞑想修行者たちは、日本の社会の中で何かしらの理不尽さを感じたというか、何かしらの疑問を感じたからこそ、仏教という価値観に魅力を感じ、瞑想という仏教の実践行たる生き方へと惹かれたのだと思う。


そうでなければ、通常、仏教さらには瞑想というものに関心を抱いてはいないだろう。


だからこそ、今、タイにいるのだ。



日本人一般としては、仏教や瞑想などに興味や関心を抱かないことのほうのが“人並”なのだ。


瞑想修行者という時点で、もう平均的な日本人ではないというわけである。








日本人瞑想修行者同士であっても、意見の合わない人は必ずいる。


それは、お互いが変わり者同士なのであるのだから、努めて大らかに接するほうがよいのではないかということを、タイの地で何人もの日本人出家者や日本人瞑想修行者たちとともにしてきたなかで感じるようになった。


人と接すれば、必ず感情が動く。


それは、何もタイの僧院や瞑想修行場でなくとも、どこにいても同じである。



本来であれば、こうした感情の動きこそサティしていかなければならない。


ところが、感情の動きは、実に荒々しく烈火のごとく激しい。


その激しさを徹底して観察し切ることができるだろうか・・・。



出家しようとも、瞑想修行者であろうとも、何であろうとも、どこにいようとも、人間として生きている以上は人間関係からは逃れることができないのである。


出家の世界と言えども、所詮は社会の中でしかないのであり、また社会の中でしか成り立ち得ないのが出家という世界だ。



人間関係は、どこまで行ってもついてくる。



誰それさんと、誰それさんは、仲が悪い。


だから、彼らと接するときには、気をつけろよ・・・などと耳打ちされたこともある。


タイという異国で出会った日本人だからこそ、互いに切磋琢磨したいと思うのは自然な感情だ。


ところが、あまりにも近づきすぎると、修行の妨げとなる。


仲良くなり過ぎても瞑想は進まないし、不仲になり過ぎても醜いいがみ合いとなるだけで、いずれも心の大きな負担となってしまう。


これは、危険だと思わずにはいられなかった。



どこまでも人間社会は難しいものだと思う。



あくまでも、これは、私の独り言だ。



最後に、念のため、私もそうしたどうしようもない“変な”人間だということを付記しておく。




(『日本人瞑想修行者には気をつけろ!?』)






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2024/02/19

タイのお坊さんの団扇・タラパット

タイのお寺でよく見かけるのが、長い柄の付いた美しい団扇である『タラパット』だ。


どこのお寺にもある比丘が使用する仏具のひとつである。


なによりも大変美しく、比丘が着座する席の近くに置かれていることが多いこともあり、ひときわ目を引く存在だろう。


古くは、ヤシの葉っぱで作られていたものが、現在では布で作られており、とてもシンプルなデザインのものから、大変細かく美しい刺繍が施された作りのものまで、非常に多彩なデザインのものがある。


少し特別なタラパットとしては、比丘としての位を受けた際に贈られたり、タイの仏教における学僧の試験に合格した際にその試験の階級に応じて贈られたりするものがある。


その際のタラパットは、特別なものであることもあり、ひときわ美しく、きらびやかなもので、一目で特別なものだとわかる。


特に高位の比丘に対して贈られるタラパットは、手の込んだ緻密な刺繡が施されていたり、なかには宝石が散りばめられていたりするものもある。



このタラパットのデザインのなかには、仏教的なメッセージが込められたものもある。


経文からある一節が引用されていたり、簡単な法話が刺繍されていたりすることもある。



例えば、葬儀用のタラパットで、



アニッチャー ワタ サンカーラー


ウパータワヤタンミノー


ウッパチッタワー ニルッチャンティ


テーサン ウーパーサモー スコー



【日本語訳】

もろもろの作られたものは、

実に無常であり、生滅するものである。


生じては滅びる、

それらの静まるところに、安らぎがある。



という4句の文言を一組・4本を一組として、として刺繍されているものがあったそうだ。


実は、この話は、実際に私が見たものではなく、私がタイで大変お世話になった方がタラパットについて話されていた時に聞いた話である。


私は、葬儀の際にこうしたメッセージを儀式に参加している在家者たちに、敢えて見えるように発するというところに、タイの仏教の素晴らしさを感じるのである。



このようにタラパットのデザインは、とてもバラエティに富んでいる。






写真:向かって左側に立てられているのが『タラパット』





さて、特に面白いと感じたのは、その使われ方だ。


簡略に言えば、タラパットは比丘が在家者の前で読経をする際に使用されるのだが、具体的には少し改まった儀式や在家者に対して戒を授ける時などに使用される。


冒頭に触れた通り(上記の画像参照)、タラパットは長い柄が付いた形状をしており、読経の際に通常は右手でその柄を持ち、比丘の顔の前に団扇を立てながら読経する。


読経の際にお経の頭出しをする比丘がひとり持つ場合と、読経する比丘全員が持つ場合とがある。



タイでは、“お坊さんの団扇”だといっても、決して扇いで(あおいで)涼をとるための道具ではないのだ。



日本人からすると、読経する比丘がひとり、あるいは全員が、どうして顔の前に団扇を立てるのかと大変不思議に思うのではないだろうか。


率直に言えば、かなり風変わりな風景なのである。


なぜ顔を隠すのかが大変不思議でならない。



これには諸説あるようであり、統一した見解があるのどうかもよくわからないところではあるが、そうしたなかで『顔を隠すため』という理由が比較的共通した説明である。


顔を隠す理由としては、ブッダの言葉とそれを語る比丘の顔とが重なってしまうことを防ぐためで、実際にブッダ言葉(お経)を語る“口”である比丘個人がブッダと同一視されてしまうことを防ぐため、ということを意図している。


つまり、読経する比丘の個性を消すためだ。


ブッダや仏法は、ブッダや仏法である。


比丘個人の人格や容姿などを通じて発生する、比丘個人に対する感情とが重ならないようにするためで、ブッダや仏法は、ブッダや仏法として受け取るべきであるという姿勢を示すものだ。


比丘個人の人格や容姿如何によっては、仏教の教えを素直に聞けないという事態が発生することも十分にあり得る。


そうしたことを無くすために『顔を隠す』のであろう。



私は、こうしたところにも、なんとも真摯なテーラワーダ仏教の姿勢を垣間見ることができると、しみじみと感じたのであった。



余談はであるが、私が出家生活のほとんどを過ごした森林僧院では、このタラパットを使用する機会が極めて少ない。


そのため私は、タラパットを使う機会は、ついに出家生活の中で一度もなかった。


一度くらいは、使ってみたかった気もするが、それはそれである。



ちなみに、比丘の持ち物としての“団扇”は、テーラワーダ仏教圏全般に存在する。


スリランカにも存在するし、ミャンマーにも存在するが、その形状と使い方がタイとは異なる。


スリランカでも、ミャンマーでも、タイのような使われ方はしないと現地出身の比丘から伝え聞いているが、スリランカやミャンマーでは、具体的にどのような使われ方をするのかについて詳しい方がいらっしゃれば、ぜひとも情報をお聞かせいただきたいと思う。


私が知る範囲では、タイのものは、団扇の形状とその使われ方がテーラワーダ仏教圏のなかでも、特徴的かつ独特だと言えるのではないだろうか。



大変興味を覚えると同時に、読経する比丘個人の個性を消して、お経すなわちブッダが説く教えそのものとして在家者の耳へと届けて、心へと届けようというその姿勢にどこまでも真摯な姿勢を感じるのであった。




【『タラパット』の日本語表記について】

タイ語では『ตาลปัตร(taa lá pàt)』であるが、タイ語の発音を厳密に日本語で表記すると『ターラパット』となる。しかし、タイ語の発音上長音には聞こえないため、拙ブログでは『タラパット』で統一することとした。



【参考サイト】

『博物学 お坊さんの団扇』


私の友人が管理するサイトである。『タラパット』の画像が多数収録されているので、このサイトをご覧いただければ『タラパット』をご存知ない方にも、本記事の内容がより理解しやすいかと思う。また、そのデザインの多彩さもおわかりいただけると思う。

このサイトに収録されているものは、比較的一般の寺院で目にすることのできる『タラパット』が中心であるが(なかには滅多に見られない大変貴重なものも収録されている)、博物館や大寺院の展示室などに展示されているものともなると、これらとまた違って芸術品クラスのもの存在する。その美しさ、多彩さに魅了される日本人も多いのだそうだ。これをきっかけにタイの寺院に興味を持っていただければと思う。




(『タイのお坊さんの団扇・タラパット』)






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