タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/07/10

危うきに近寄らず

先日、僧侶による殺人事件なる報道が私の耳へ飛び込んできた。
仏教に興味・関心を持つ方にとっては、非常に記憶に残る出来事だったのではないかと思う。

インターネット上では、さまざまな角度からこの事件についての批評を散見するが、本論から外れることになるので、ここでは詳細に立ち入ることは控えることにしたい。

さて、殺人といってまず想起するのは、5戒の冒頭・・・

「パーナーティパーター ウェーラマニー シッカーパタン サマーティヤーミ」
(生きものを殺さない戒を保持します)

・・・であろうか。
この場合、生きものとは人間のみを指すのではなく、生きもの全てを指す。


参考までに、比丘が保つべき227戒ではどのように書かれているのかを見ておきたい。


○『何れの比丘といえども、故意に人の体から生命を奪い、あるいはその為に刀を持つ者を探し求め、あるいは死の美を称え、あるいは死を勧めて「ああ、汝よ、この悪しく苦しき生が汝にとって何になる。汝にとって死は生に勝る」と言い、そのように思い考え、思いと決心を持ち、種々の方法で死の美を称え、死を勧めるならば、これもまたパーラージカ(波羅夷罪)であり、共に住することはできない。』

参考文献:
『パーティモッカ二二七戒経 タイ・テーラワーダ仏教・比丘波羅堤木叉』
2011年・21頁より


○『断人命戒 自ら、もしくは他人をして、刀にて人を斬り、死に至らしめる。』
○『(波羅夷罪を犯した)その比丘は、サンガより追放され、比丘として住することはできない。』

参考文献:
『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』
1986年・99頁より


すなわち、殺しても、殺させてもいけないということである。
そして、もしも、比丘が殺人を犯したならば、サンガより追放されるということである。

・・・私がタイで出家していた期間中には、そのような比丘の事件を耳にすることはなかったが。

ともあれ、どのような事情があろうとも殺人は許されるものではないばかりか、自己の悪業となる行為でもあるということはいうまでもない。


ところが、もし・・・自分がそのような状況のもとへ放り込まれてしまったならば、どうなってしまうであろうか?

お考えになったことはおありだろうか。

ひとたび“そのような縁”に触れ、“そのような縁”の中に立たされてしまったとしたら、自分は一体どのような行いを為すのだろうか・・・?

・・・ともすると、どのような行いでも為してしまう可能性はないだろうか。

いや、いや、殺人など犯すわけがないではないか!

そう思われたのではないだろうか。

そうかもしれない。

・・・しかし、そうではないかもしれない。

殺人に至るまでには、さまざまな縁があったことだろう。
如何ともしがたい事情があったのかもしれない。
さまざまな条件が重なったことだろう。

おそらくは、それらのさまざまな縁から離れることができなかったのではないだろうか。
ゆえに、そうした行為に至ってしまったのではないだろうか。

もし、そうした縁や条件に遭遇した時、皆様であれば離れることができるという自信と確証はあるだろうか。
仮に重罪にまでは至らなくとも、不善なる行為に至りはしないだろうか。

怒りの縁に触れれば怒りにまみれ、欲の縁に触れれば欲にまみれてしまう、そんな「自己」なのではないだろうか。

私は、悪しき縁と遭遇した時、必ず離れることができるという自信がない。

私は、この事件をそうした観点で捉えたのであった。


人は、過去に数え切れないほどの悪業を犯してきている。
しかし、逆に、数え切れないほどの善業も為してきている。

仏教の理論に従えば、過去の数え切れないほどの善き行いの結果として、今こうして人として生まれ、今こうして仏法と出会っているわけである。

遠い過去からの善き“きっかけ”の積み重ねの結果だ。

自己のなかには一体どのような要素があり、どのような可能性が潜んでいるのだろうか。
それは、凡夫である私には全くわからないことだ。

秘めているものが善き要素なのか、それとも悪しき要素なのか・・・。
それを知ることなど不可能だ。

あらゆる要素と、あらゆる可能性を秘めているのがわが身なのではないか。
結果として現れて、初めて判別できることである。

よかれと思って為したことであっても、よくない結果となることもある。
現実は、非常に複雑で自己の判断など全く正しくないことすらある。

全く自己の判断が及ばない範疇だ。

しかし、自己の判断が及ばないからと言って、何をしてもよいというわけではない。
それは、欲の赴くまま、感情の赴くままに行動しようとしているにすぎない。

どんなに些細なことがらであっても、善ききっかけに近づき、自己の心を清めていく“心がけ”をしていかなければならないのだと私は思う。


過去に為してきた悪業は、今どうこうと言ってみたとしてもどうすることもできない。
変えることもできないし、消し去ることもできない。

これから為すことができること、これから為すべきことへと目を向けていくべきである。

できる限り善ききっかけに近づき、善ききっかけを作り、そして自らも善ききっかけとなっていくことが大切なのではないだろうか。


自己の心とは、出会うさまざまな事柄によって、実にさまざまな行為が生じるものだ。
数限りなく為してきたであろう善と悪。

善き縁に触れれば、善き心が生じる。
悪しき縁に触れれば、悪しき心が生じる。

どのような可能性が潜んでいるのかわからない自己。
ひたすら善き心を育み、自己の心を清めていかなければならない。

一方で悪しき縁は遠ざけ、できる限り触れないように努めていくことが肝要である。
危うきには近寄らずという姿勢を常に心がけたい。


危うきに近寄らず、ひたすら善き心を育んでいく。


それが唯一、清らかな心への道なのではないだろうか。



『すべての悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること
―これが諸の仏の教えである。』

ダンマパダ・第183偈

中村元 訳
『ブッダの真理の言葉 感興のことば』
岩波文庫 2000年 36頁より



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『善ききっかけをつくる』



(『危うきに近寄らず』)

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