人間、生きていれば誰でもそのような経験があるというもの。
もちろん、私も例外ではない。
ひとえにこのブログのおかげで、再び仏教と縁を結ぶことができたように思う。
もちろん、私も例外ではない。
ひとえにこのブログのおかげで、再び仏教と縁を結ぶことができたように思う。
コメントやメールというかたちではあるが、さまざまな方から仏教のお話を聴かせていただくことができた。
こうしてブログを書いてきたことで、自己を振り返る機会をいただき、前へと進むきっかけを得ることができたのではないか。
私は、そのように思っている。
再び仏教書を読む機会も少しずつできてきた。
こうしてブログを書いてきたことで、自己を振り返る機会をいただき、前へと進むきっかけを得ることができたのではないか。
私は、そのように思っている。
再び仏教書を読む機会も少しずつできてきた。
さらには、大学時代の仏教の講義ノートを引っ張り出してきて読み返してもいる。
何故、あの時、もっともっと学んでおかなかったのだろうか!
・・・そう思いながら、もう十数年開けていなかったノートを開いている。
何故、あの時、もっともっと学んでおかなかったのだろうか!
・・・そう思いながら、もう十数年開けていなかったノートを開いている。
十数年というよりも、講義以降開いてもいないノートである。
あの講義室で受けたあの講義、あの教授の声が甦ってくるようだ。
人よりも博学というわけでもなく、人よりも悟りに近いというわけでももちろんない。
しかし、やはり私は仏教のことを考えている時間や、こうして仏教の話題について書いている時間が好きだ。
あの講義室で受けたあの講義、あの教授の声が甦ってくるようだ。
人よりも博学というわけでもなく、人よりも悟りに近いというわけでももちろんない。
しかし、やはり私は仏教のことを考えている時間や、こうして仏教の話題について書いている時間が好きだ。
「私」という人間をブログの記事として書くことで、私にとって仏教が一番好きだということをはっきりと確認できたように思う。
・・・情けないことに、日常生活の中ではそのようなことすらわからなくなってしまっていたのだ。
しかしながら、同時に、激しく後悔の念が噴きあがってくることもある。
学問が本業であった大学時代にもっと仏教を学んでおけばよかったこと。
また、自分をブログに書き出していくことで、全く仏教の実践ができていない、できない自己の姿が明らかになってくるからだ。
そして、もうひとつ深い後悔の念・・・それは、タイでの瞑想のこと・・・結果として、何も得られなかったということだ。
前回の記事にて、『「大切なのは、常に自己の行動そのものに対して意識的になり、今を気づく心を身につけること」だと気づいた』
それが得たことであったと書いた。
ところが、やはり心のどこかでは、私の努力が足りなかったのではないか・・・、やり方次第では、もっともっと何かが得られたのではないか・・・と思うことがある。
もっとタイで学ぶための準備を整えておくべきであった。
もっとタイ語や英語を学んでおくべきであった。
もっともっと、限界を超えるまで瞑想に励むことはできなかったのか・・・
その時は、精一杯の選択をし、精一杯の努力をし、最善を尽くしてきたにもかかわらず・・・である。
しかし、常に全力疾走していたわけでもなかった。
あの時もっとこうしておけば・・・と思うことばかりである。
時間を無駄に使ってしまった・・・そう後悔することばかりだ。
自己を振り返るということは、そういうものなのかもしれない。
ところが、そうした後悔の念は、単なる過去への囚われにしか過ぎないのである。
「過去」という私の「感情」の中でひたすら遊んでいるに過ぎない。
そうした感情の中にどっぷりと浸かってしまってはいけないのだ。
まさに、今を気づく心を忘れた姿で、過去でも未来でもなく、今の自己に気づいていかねばならないのである。
私がタイで出した答え・・・還俗と帰国。
それは、過去のブログ記事に詳しいが、「父親の病」という理由もあった。
もうひとつの辿り着いた答えは、
「私には悟れない。」
であった。
あまりに遠き道のりに挫折した。
それは、ヒマラヤの山々よりも高く積まれた数え切れないほどの芥子粒の山をひとつひとつ芥子粒を数えていく作業に喩えられようか。
芥子粒を地道に数え続けるならば、いつかは尽きることだろう。
あまりに堅実で、あまりに確実な方法だ。
しかし、そのあまりにまじめで手堅すぎるさまに圧倒された。
私には無理だ・・・そう感じたのだ。
帰国後は、さらなる苦悩の日々を送ることとなった。
『絵に描いた餅』
私には実現不可能な経典の中でだけで示された穏やかなる悟りの世界。
それでは仏教なんて意味がないではないか・・・
目の前に立ちはだかる苦しみの前では、仏教は何の意味もなさない。
仏教は、世間で生きる「私」に一体なんの利益をもたらすのであろうか?
タイからの帰国後、日本の生活との落差に押しつぶされた。
一度は仏教を投げ捨てた。
・・・しかし、はたして、本当に仏教は私にとって意味のないものなのだろうか?
それは違う。
それが、再び私が辿り着いた答えであった。
私には悟れない。
しかし、だからと言って何もしなくてもいいというわけではない。
たとえ、ほんの少しでも前へ進むべきではなかろうか。
芥子粒ひとつであっても前へ進むべきであろう。
今の生活を少しでも善き方向へと進めるべきなのだ。
私にできることをやったらいいのだ。
私は、今までに善き生き方をするきっかけを学んできたではないか。
今こそそれを実践する時ではないか!と。
学問が本業であった大学時代にもっと学んでおけばよかった。
タイへはもっと準備を整えて出発をすればよかった。
タイでの瞑想実践もさらにもっともっと懸命に励んでおくべきだった。
そのような後悔はたくさんある。
数え切れない。
ところが、そう思ってみたところで進展することは何もない。
反省することはよいことだ。
次に踏み出す一歩へ活かすことができる。
しかし、反省することと後悔することとは違う。
後悔はするべきではない。
後悔は、善き心を生まない。
過去に囚われることは、過去に執着することにほかならない。
今できる最善のことを実践するよう努めるべきだろう。
そこに仏教の生き方がある。
反省はしても後悔はしない。
反省は、これからの自己の行動の指針となり得るものである。
ところが、後悔し過去にとらわれていくことは、沈んだ心を生み、愚かなる心を育ててしまうことになる。
反省はしても後悔はしない。
こうも言えるのでないか。
後悔しない最善の選択をして進めと。
それが仏教的な人生の歩み方なのだと私は思う。
そして、自己を善き方向へと向ける後悔しない明るい生き方なのだと。
(『反省はしても後悔はしない』)
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