タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/05/27

劇的な変化を求めない


巷では、いわゆる“修行系”なるものが人気なのだという。
そのようなことが話題として挙がっているのを見かけるが、あまりに気軽過ぎるのは多少の違和感を覚える。

いわゆる“修行系”への関心が高いということは、前回の記事(『閲覧数にみる関心の方向』)においても明らかなことであり、別段驚くべきことではない。


しかし、私は一点だけ「“瞑想”するとは一体何なのか」ということをはっきりとさせておく必要があるということを指摘しておきたいと思う。


修行や瞑想に興味を持つ理由は、人それぞれなので私がどうこうと口を挟む立場ではないが、この点だけはしっかりと心しておかないと大変なことになりかねないのではないだろうか。

はっきりと正しく理解しておくべきだと思う。

修行や瞑想に興味や関心を抱かれる方の多くは、自分の何かを変えたい、自分にない何かを得たい・・・そのような思いもあるのではないだろうか。

もちろん、私もそうであった。

瞑想に取り組むからには、何かしらの成果や成長を得たいと思うことはごく自然な感情だ。
もし、何も得られないということであれば、瞑想する必要は全くないし、意味もないだろう。


ではもし、瞑想の目的と意義を理解していないとどうなってしまうのだろうか。
あるいは、間違って理解をしているとどうなってしまうのか。

・・・それは、某新興宗教がその典型例ではないかと思う。


世間では、名は知られていなくとも、非常に素晴らしい師がたくさんいらっしゃる。
その一方で、悩みを抱える人の“心の隙間”を虎視眈眈とねらう悪徳な者も数多くいるというのが実情だ。

ぞれぞれがさまざまなセミナーや勉強会、瞑想会などを開催している。

どれを選び、何を信頼すべきなのか・・・選択は容易ではない。

その見極めは、ブログ記事『地下鉄サリン事件に思う』でも触れた通り、やはり自己の目を養うしかないのではないかと私は思う。

そのためにも、瞑想の意義や目的を正しく理解しておくことが大切であろう。

そうすれば、誤った方向へと向かうことはないし、騙されることもない。
その彼が言っていることが正しいことなのか、あるいはそうではないのかが適切に判断できることだろう。


巷では、瞑想することで何か特別な力を得ることができるようなことを期待させる記述もしばしば見受ける。
あるいは、瞑想が劇的な変化をもたらすように紹介されているものもある。

しかし、そうしたことを目的とする瞑想は、すでに仏教の瞑想ではない。


“特別な力”や“劇的な変化”を望むことは、非常に危険だということを認識しておくべきだと思う。

そういった方向性を望むことは、執着を生むばかりでなく、傲慢な心を求めることにもつながるものである。

そもそも、“特別な力”や“劇的な変化”を求めたところで、真の目覚めが得られるものではない。

正しき方向を誤る行為であるということを知っておかなければならない。


ところが、人は問題を抱えている時、困難な状況に直面した時や行き詰った状況にある時ほど、偏狭な思考回路に陥りやすく、そうしたフレーズに惹かれやすいのもまた事実。

劇的な変化を得て劇的に人生を変えたい・・・。

苦しい時ほど、ほのかな期待感に全てをかけてみたい・・・。

・・・そう思うものだ。

なんと弱く、自己を見失っている姿なのであろう。


私も、そうである。

仏教や瞑想をしっかりと学んできたつもりであった。

しかし、いとも簡単にそうしたフレーズに魅力を感じてしまうわけである。


そのような時・・・

「今を気づく心」こそが拠り所となるのではないだろうか。


荒れ狂う自己の感情・・・

「今を気づく心」は、自分の感情に巻き込まれてしまう頻度をより少なくしてくれる。

では、どうしたら「今を気づく心」をしっかりと保つことができるのだろうか・・・。


私は、タイでの瞑想を経て、今、日本でごく普通に生活をしている。

その紆余曲折の日々は、ブログのなかでも綴ってきた通り非常に情けないものだ。


自分の力ではどうしようもない状況もあった。

職場では、嫌な人間関係もあれば、腹が立つ出来事もある。

面倒で、やりたくもない仕事を被ることもある。


そうした全ての経験を通じて思うことは、仏教の考え方やものごとの見方を基とし、仏教の瞑想をきっかけとして「今を気づく心」を身につけていくことの大切さだと思う。


何を隠そう、私も全く実践できていない部類の人間である。

しかし、ほんの少しだけ意識することで、確実に善き方向へと向かうことができるということを実感している。


瞑想の意義、目的とは・・・


瞑想とは、自己の基礎となる身体と言葉と心の訓練であり、より冷静に、より客観的にものごとを観るための訓練である。

自己の心の静まりと落ち着きを得るための訓練なのである。

すなわち、自己の心の静まりと落ち着きを得て、意識を客観的に保つように努めることで、迷いから抜け出すのである。


これは、瞑想の目的であると同時に、仏教そのものの目的でもある。

仏教の究極的な目的(目標)は、いうまでもなく涅槃である。

悟りを得ることであり、完全に苦を滅することである。

そのための方法として「瞑想」があるのだ。


この点だけは、しっかりと理解しておくことが大切であると思う。


劇的な変化や成果を得る必要はないし、求める必要もない。

人と比較する必要も全くないのだということも併せてお伝えしたいと思う。

時には自分の期待通りに運ばないといういら立ちを感じることがあるかもしれないが、それも自己の思い通りにしようとする“考え”に過ぎない。

劇的な変化や成果を得たいと思っている自分に気づく。

思い通りにしようとしている自分に気づく。

そうした心の動きへも「気づき」を入れていかなければならない。


“そうした自分自身”を知るのである。


自分の日々の行動や考え、感じ方を知り、気づくということを少しだけ心がけてみることをおすすめしたいと思う。


自分の癖に気づく。

自分の身体や心の動きに気づく。


すぐに穏やかな自分になることなど容易ではない。

しかし、今の自分にできることから、今の自分のすぐ近くにあることから始めていくことが肝要であると私は思う。

こうした心掛けは、悟りへの階梯のなかではほんの芥子粒ほどの一歩なのかもしれない。
いや、進んでいるとも言えないほどのことなのかもしれない。

しかし、それは日常生活における、今、この瞬間に実践可能な確実な一歩なのである。

そうすることで、今、自分は何を考え、何をしつつあるのかがわかるようになる。

また、より注意深く自己をとらえていくことで、ついうっかりとすることも少なくなることであろう。

ある時、ふと振り返ってみた時、少しだけ成長している自分に気がつくことだろう。


私は、仏教の考え方やものごとの見方を基として、瞑想をきっかけとすることで人生を善き方向へと導くことができると思っている。

しかし、それは決して劇的な変化や特別な力を期待するものではないと思う。


私はタイで3年間出家した。

結局は何も得られず、元の木阿弥となってしまった。


劇的な変化や大きな変化など私には一切なかった。

高い境地も特別な力も何もない。


嗚呼・・・!

私の3年間は一体何だったのか!!


何も得られなかった。

ただ、タイへ行ってきたのだという記憶があるのみだ。


もし、得られたものがあったとするならば・・・


それは、ここに書いてきたこと・・・「大切なのは、常に自己の行動そのものに対して意識的になり、今を気づく心を身につけること」だと気づいたことであろうか。


すなわち「気づき」なのだと。


今さらながらに・・・気がついたのかもしれない。

たったそれだけが、私の3年間だったのだと。



(『劇的な変化を求めない』)



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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

瞑想や修行というと、どうしても何か劇的な変化を期待してしまいがちですよね。

ミャンマーで歩行瞑想していたとき、ある風変わりな体験をしたのですが、指導僧からは、瞑想中には通常とは異なるような様々なことが生じるものである。何があっても恐がったりすることなく、囚われずに、ただ冷静に観察していなければならないと諭されてしまいました。
こうした劇的というか、風変わりな体験をすると、この体験に固執してしまいます。その後しばらくは、「もう一度あの体験をしてみたい」と期待してしまい、妄想だらけで歩行瞑想がうまくできないような状態が続きました。

てくさんのおっしゃる劇的変化への期待とはニュアンスが違うかもしれませんが、
やはり、囚われたり、期待したりというのは御法度ですね。

あと、

ミャンマーにいるとき、私も、いくら瞑想しても何も進展が無いなと、日本人比丘に愚痴をこぼしていたら、
「数ヶ月間にわたって、瞑想という善行為を行ってきたではありませんか。何も結果がないように見えても、この功徳は業(カルマ)として確実に来世も含めた将来に影響します。このまま瞑想修行を続けていけば、必ず結果は現れる。」と諭されました。

確かにな、と思いました。不善行為にまみれて時を過ごすよりは、たとえ僅かでも不善行為を離れる努力はしてきたわけだし。

まじめに修行していれば、それは業(カルマ)として、確実に来世も含めた後の人生に影響するのだと。

私はようやく、日常生活において、まだまだ散漫ですが、ちょこっとだけ気づきが入るようになりました。
フッと気づくと、以前よりも妄想を楽しんでいる時間は明らかに減っています。

てくさんの3年間の修行も無駄ではなかったのではないでしょうか。
やはり「気づき」に気づいたのは大きな収穫ではないかと思います

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

私も瞑想中にパーラミー様と似たような経験をしたことがあります。通常とは異なるような経験をすると、とかくそれに囚われたり、期待をしたり、慢心を起こしたりしがちですよね。しかし、たとえ夢であっても、幻覚であっても、“経験した”という事実は変わりません。それをただただありのままに経験した“事実”として受け止め、冷静に観察していくことに徹していかなければならないのですよね。自分勝手な判断や解釈を入れず、事実をただありのままに観察をしていく・・・簡単なようでなかなか難しいものです。

そうしてひたすら観察していくということは、非常に地道で、気が遠くなってしまいます。しかも、目に見える、体感できる“進展”のようなものを感じにくいものでもあります。それだけに疑いの心が起こってきたり、何も進展しないじゃないかと落ち込んでしまったりしてしまいます。私も全く同じです。

ミャンマーで日本人比丘の方から諭されたという言葉、私もまさにその通りだと思いました。全ての行為は、どんな小さなことであっても私の人生に影響するわけです。穏やかな心はほんの瞬間であっても保つことができるよう努めたほうがいいですし、どんなにわずかであったとしても善い心を生じさせるように努めたほうがよりいい方向へ向かうわけです。たとえ進展がないように感じたとしても、無駄ということはないのですよね。

実に不摂生極まりない、また欲と怒りと愚かさにまみれた私の日々ですが、日常生活のなかで少しでも「気づき」がなせるよう努めていきたいと改めて気を引き締めさせられる思いです。パーラミー様のコメント、そしてミャンマーで出会ったという日本人比丘の方から諭されたという言葉・・・まさにこの私へ向けられた言葉のようでもあり、「はっ」とさせられました。ありがとうございます。

今後ともよろしくお願いいたします。