タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/05/10

閲覧数にみる関心の方向

非常にゆっくりとした更新頻度ながら、このブログの記事も100を超えた。
ブログを始めた時には、書いているうちに自己の慢心を増長させてしまうのではないかと恐くもあった。

しかし、こうしてブログを書いてきたことは、自己を深く振り返る機会となった。
自己の混沌としている心の中のさまざまな気持ちを整理し、自己を知り、自己の方向性というものを少しづつ明らかしていくことができたように思う。

そして、さまざまな方からいただいたコメントやメッセージには、非常に励まされるところであり、心から感謝している。
顔こそ見えないものの、仏法の友との出会いに等しいものである。

仏教のことが好きな方々や、懸命に仏法に生きようとされておられる方々がいる、仏法の友がいるのだということを知ることができただけでも大いなる喜びである。

もし、このブログを書くことを踏みとどまっていたならば、幼少の頃に抱いた仏教への興味から始まり、大学時代に熱意をもって学び、タイへ渡って求めた仏教は、私から離れていくばかりであったことであろう。

私の日常生活は、聖人君子のようなものでは到底あり得ないが、日々の生活の中でさまざまな形で仏法の実践をされている方々も多いことと推察している。

また、非常に熱心に仏教の学問をなされている方々もまた多いことと推察している。

そうした方々から善き刺激を受けることができたと表現したらよいのだろうか。

仏教の学問に励んだ学生時代を思い出し、瞑想に励んだタイの森の寺での日々を思い、気持ちが篤く甦ってくるのであった。


タイで過ごした日々を中心として、回顧録のような形でまとめてきたものがこのブログである。

今回は、そのような今までのブログ記事の中でどういった記事が最も多く閲覧されているのかということに着目してみようかと思う。

以下の考察からも見えてくるものであるが、近年、仏教、特に「仏教の瞑想」というものへの関心がとても高まっていると感じている。

それは、書店の仏教書コーナーを眺めてみれば一目瞭然でもあり、上座仏教や瞑想関連の書籍が数多く並べられていることからも明らかであろう。


そうした世間の状況と純粋な私の興味からでもあるが、全記事の中で閲覧数の多い記事からその関心の方向を探ってみたいと思う。

閲覧数の多い記事を順に挙げて、それぞれ少し考察を加えてみたい。

以下は、順に閲覧数の多い記事である。


【 『瞑想修行のできる寺』 】

他の記事の追随を許さない、群を抜いて閲覧数の多い記事である。

実は、こうした瞑想修行のできる寺院をブログで紹介しようと思ったのは、タイで出会ったある人が手にしていた

『A GUIDE TO BUDDHIST MONASTERIES AND MEDITATION CENTRES IN THILAND』

という英語の小冊子がきっかけだ。

これを目にした時、私は日本語でこのようなガイドブックがあれば、瞑想修行を志す人にとってどんなに重宝することだろうかと強く感じた。

その小冊子には、タイの名だたる寺院や森の寺、瞑想センターなど、大小さまざまな瞑想修行が可能な寺の所在地と簡単な紹介、それぞれの寺の瞑想方法等がわかりやすく記されていた。

私は、その人に頼み、一晩だけその小冊子を借りた。
詳しく読んでいる時間はなかったため、必要な情報だけを必死に私のメモ帳へと写し取ったのだった。

他の記事の追随を許さない、群を抜いて閲覧数が多いということは、この時私が感じたことをそのまま現しているように思う。
また、それだけタイの寺で修行したいという志を持った人が多いということであり、それだけタイで修行できる寺を探している人が多いということだろう。

さらには、仏教の「瞑想」というものへの関心が非常に高いということをこの閲覧数が示しているのではないかと私は思う。

余談になるが、先程、仏教書コーナーの話題に触れたが、仏教以外の瞑想に関する書籍もまた驚くほど多い。

ヒーリング、癒し・・・
自己探求、深層心理を探る・・・
心を解放する、本当の自分に出会う、今の自分にOKを出す、傷ついた心を癒す・・・

さまざまなキャッチコピーが瞑想関連書籍の表紙を飾る。

ひとくちに「瞑想」と言っても実に多種多様なのだ。
しかしながら、一般的に「瞑想」と言えば、そちらの“瞑想”を連想されるので苦笑する。

ともあれ、瞑想全体への関心が高まっているということは確かだと言えそうである。


仏教の瞑想に触れることで、ブッダが本当に伝えたかったことを考えるきっかけになればと思う。
そしてもし、このブログがその縁となることができるのであれば、このうえなく幸いである。

仏教との善き縁となり、人生の善き縁となるものと信ずる。


【 『瞑想中に目は閉じるのか?開くのか?』 】

次いで閲覧数の多い記事が『瞑想中に目は閉じるのか?開くのか?』である。
『瞑想修行のできる寺』には遠く及ばないが、これもまた群を抜いて閲覧数の多い記事である。

タイで実践されている主な瞑想法の基本的な導入部分において、目は閉じるものなのか、開けるものなのかを紹介した記事だ。

この記事もまた、仏教の「瞑想」というものへの関心が非常に高いということを示しているものであると思う。
それと同時に、瞑想を実践している、または実践しようとしている人の多さを示しているものなのではないかと私は感じている。

なぜならば、実際に瞑想に取り組んでみなければ湧いてこない疑問だと思うからだ。

事実、私もタイでさまざまな瞑想法と出会い、その手法の違いというものを知って初めて感じたことであったからだ。

日本人にとって馴染みのある「禅」では、「半眼」を指導され、決して目は閉じない。

この先入観ゆえに“目は閉じないものだ”との固定観念につながっているのかもしれない。
あるいは、一般的な瞑想のイメージから、目は閉じるものだと思っている人も多いのかもしれない。

それゆえ、閉じるのか?開くのか?、一体どちらなのだろうという疑問につながるのだろう。

タイで実践されているさまざまな瞑想法の違いは、それらの固定観念を打ち砕くに十分なものである。

この記事では「目の開閉」に着目しているが、それぞれ瞑想方法の違いを比較検討してみるもの非常に興味深い。


【 『女性の出家』 】

このブログの閲覧数の解析からは、閲覧者の男女比率まではわからない。
そのため、これはあくまでも私の推測の域を出るものではないが、タイの仏教への関心は、男性のみならず、女性の方々にとっても非常に高い関心があるということを示しているのではないかと思う。

タイでは、サンガの伝統上、正式な出家者である「比丘尼」となることはできない。
しかし、寺で「メーチー」として生きることができ、そうした女性達が非常に多く存在する。
事実上、このメーチーとして生きることが女性にとっての「出家」の形となっている。

そういった意味では、男性であっても、女性であっても、自由に寺へ出入りすることができ、各々が納得のゆくまで瞑想実践に打ち込むことが可能なのである。

そこがタイの寺のいいところであると思っている。

私の不勉強さゆえに、メーチーに関する情報を多く紹介できないことを大変申し訳なく思うが、是非とも女性の方にもタイの仏教に触れていただくきっかけとなればと思っている。


【 『ある森の寺での生活』 】

森の寺での生活は、実に貴重な体験であったと身にしみて感ずるものである。
是非とも機会があるのであれば、このような静かな環境の中で過ごしたいものだと思う。

テレビ、携帯電話、パソコン・・・さまざまな“もの”に囲まれて生活していかなければならない現代社会。
はたして、本当になくてはならないものはいくつあるだろうか。

なくてはならないと思っているのは、実は自分の勝手な思い込みで、本当になくてはならないものなどごくわずかしかないのだということに気づかされる。

同時に、日ごろ抱いている数多くの悩み事は、実は自分の勝手な想像や妄想によるもので、自分が勝手に大きく膨らませてしまったイマジネーションに過ぎなかったのだと気づかされる。

是非とも機会があるのであれば、日本ででもタイででも、こうした時間を経験していただきたいと思う。
きっと多くの気づきが得らることと確信している。

前置きが少し長くなってしまったが、「瞑想」というものへの関心の高まりとともに、「森の寺」という存在への関心が高まっているのではないかと思う。

私も、当初、森の寺の存在を知り、非常に惹き付けられた記憶がある。

それは、仏教のより原点に近い生活様式を今に伝えているものである。
そうした世界の存在に関心が寄せられるということは、大変喜ばしいことであると私は思う。


【 『死体の写真と煩悩』 】

生と死の問題は、誰もが一度は考えたことのある問題なのではないだろうか。

人生の中で唯一「確実」なことであるにもかかわらず、誰もが他人事にしか思っていないこと、それが『死』なのではないだろうか。

不浄観とは、そうした死というものを直接的に見せてくれるものであると同時に、人間の身体とは、あるいは自己の身体とは、ただただ「そのようなもの」なのだということを淡々と観る実践である。

学生の頃に読んだ経典のなかの「墓場へ行って瞑想しなさい。」というあの記述が、現実に今も実践され、受け継がれているという事実に私は大変驚いた。

仏法への非常に真摯なる姿勢であると思う。

日本では、あまりそうした直接的な実践方法は少ないのではないだろうか。
この高い閲覧数は、そうした日本の環境下で興味を覚える方も多いということを示しているのだろうか。

不浄観に関しては、誤解を招き、曲解される可能性も少なからずあるため、ここであまり多くを記述することを控えることにしたい。

仏教を正しく理解されたうえでお読みいただきたいと思う。


※ブログ内の目次として作成した記事『ブログ記事一覧』が実際の閲覧順位としては2番目となっているが、「目次」という性格上考察より除外することとした。


このようにブログ内の記事の閲覧数にみる関心の方向は、やはり「瞑想」に関することへ向いているということが窺えると思う。

さらには、上座仏教(テーラワーダ)への関心の高さを示しているものでもあると思う。

よりシンプルで、よりわかりやすい、そうした瞑想法と上座仏教が関心を惹きつけているのではないだろうか。

ブッダが本当に伝えたかったことは、もっとシンプルであったはずである。
それは宗教とか哲学などといったものではなく、私の生活そのものであったはずだ。

私が目指している方向性でもあるが、実際に私が生きている日常生活の中で、より心穏やかに過ごすこと・・・

みなそのための実践を目指しているのではないかと私は感じた。


以上は、単なる私の勝手な考察である。

みなさまはどんな関心の方向をお感じになるでしょうか・・・。



(『閲覧数に観る関心の方向性』)

4 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見いたしました。
瞑想のできるタイのお寺への関心が最も高いようですね。なんかわかる気がします。

実は私も、実現はまだだいぶ先になりそうですが、いつかはタイの瞑想寺院を巡ってみたいと考えています。

タイで修行していたカナダ人比丘の書籍を読んでいたら、終日歩行瞑想に専念し、時間が惜しいとして、暗くなっても僧坊に戻らず、その場で眠りにつき、翌朝目覚めたらすぐに歩行瞑想するという話があったりして、タイの森林寺院の激烈な修行ぶりに驚いたものです。また、ミャンマーのお寺で知り合ったイギリス人僧が、その後タイの瞑想寺院を巡礼してきたのですが、その内容をメールで教えてもらいました。何人か悟ったらしい方達に出会ったことが書かれていました。こうしたことから、ぜひ一度はこうした寺院を訪ねてその修行ぶりを見てみたいと思っています。タイはバンコクとアユタヤしか行ったことがなく、地方の森林寺院の実態とかはまったく不案内です。

「a guide to buddhist monasteries and meditation centres in thailand」は、私も持っています。1991年の第3版です。タイで瞑想修行してみようとする人たちのために、タイ全国の瞑想寺院の基本情報をコンパクトにまとめた貴重な一冊ですね。もう20年近く前に、バンコクのワットボウォニウェートのはす向かいにある仏教書専門店で購入したものです。書店名は忘れましたが、バンコクに行った際には、よく立ち寄っていました。行くたびに英語書籍を何冊か買っていたように記憶しています。PTSやBPSなどの書籍も置いてある書店です。初版は1978年ですが、amazon.comで検索すると、どうやら2004年に4版が出ているようです。

あと、さらにそれ以前に買った「the meditation temples of thailand : a guide」という書籍もあります。1990年出版です。著者はかつてロンリープラネットのタイ編の著者であったJoe Commings。買ったのは、バンコクのスクンビット通りにあるDK Booksだったと記憶してます。
こちらの書籍は、前半は、タイ仏教の概説、タイの気候、食事や居住環境から、瞑想法の紹介などタイで暮らして修行するための基本情報になっており、後半に、各瞑想寺院ごとの個別情報が掲載されています。個別情報は前著のほど詳しくはありません。

というわけで、タイの瞑想寺院は、いつかは訪ねてみたいです。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

書籍をご存知なのですね。あの時の思いが甦ってくるようで、どこか気持ちが熱くなってきます。当時、日本ではタイに関する情報が少なく、実にさまざまな瞑想法があるということをタイに入ってから知りました。そうした情報も各僧院ごとに記載されており、是非とも入手したいと思いましたが、残念ながら入手することができませんでした。今も当時の手書きのメモだけが残っています。あのような書籍が日本語で出版されていたら・・・と思いますね。やはり、このような英語の書籍が出版されているということは、英語圏から瞑想を志してタイへ来る方が多いのでしょうね。
私のブログの記事では、実際に私が訪れた僧院のみの紹介で、狭い範囲の情報ではありますが、多くの方に参考としていただくことができれば、非常に幸いであると思っています。

タイの森のお寺での生活は、誰もにおすすめしたいと思っています。それほど素晴らしいものでした。ずっとそこで生活をしなさいということになれば、少々苦痛に思う方もいるかもしれませんが、一日でも二日でも、そうした空間にいることだけで価値があると思っています。ですので、ほんの短期間でも構わないので、是非とも知っていただきたいのです。そこからたくさんの気づきがあるということは、ブログへも書かせていただいている通りです。タイで学ばせていただいた私としては、是非ともいつかタイの森のお寺を訪ねていただければ嬉しく思います。

最近、ミャンマーで出家経験をお持ちの方とお話しする機会がありました。習慣をはじめ、比丘の生活や日常生活に関する戒律の解釈など微妙に異なる点が多々あり、とても興味深いと感じました。私もいつかミャンマーの僧院や森林寺院、瞑想センターなどを訪ねてみたいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

パーラミー さんのコメント...

お返事ありがとうございます。

タイも瞑想修行するには良い環境が整っていそうですね。
イギリス人僧から届いたメールを改めて読んでみたら、そこにも、修行を進展させる良い環境があると書いてありました。
やはり、いつかタイの森林僧院も行ってみる必要がありそうです。

「a guide to buddhist monasteries and meditation centres in thailand」は、要約版のようなものが、The world fellowship of buddhistsのウェブサイトに掲載されています。
下記アドレスです。
http://www.wfbhq.org/meditation/63-meditation-centres-in-thailand.html


Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

コメントをいただきましてありがとうございます。

タイの森林僧院を知るお知り合いの方がたくさんいらっしゃるのですね。
書籍やサイトなどに紹介されているお寺以外にも、名もなき小さなお寺で非常に素晴らしい環境のお寺もたくさんあります。

指導を受け、瞑想法を習得するにはやはり有名寺院や瞑想センターのほうがよいのかもしれませんが。

貴重な情報をありがとうございました。

今後ともよろしくお願いいたします。