タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/11/07

やっぱりタイのお寺で瞑想修行がしたい。

やっぱりタイのお寺で瞑想修行がしたい。
タイのお寺へ行きたい!

でも・・・。
タイ語も英語も話せないし、タイとのつながりもない。

そんなことではタイへ行けるわけがない。
私には無理だ!

そのように思われた方もいらっしゃるのではないだろうか。

何を隠そう、私もそのように思ったひとりだ。

私としては、無責任なアドバイスはしたくないと思う。
それゆえ、少々厳しい意見や所感を書かせていただいた。

けれども、やっぱりタイの寺に興味がある。
どうしてもタイで瞑想修行がしたい。

でも・・・。
タイ語も英語も話せないし、タイとのつながりもない。

私は、そのような方の背中をあたたかく押したい思う。

出家となると、どうしても何らかのかたちでタイの寺へ紹介をしてもらわなければならないので、少しハードルが高くなってしまう。
しかし、「瞑想修行」ということであれば、在家のままであっても十分に可能である。
そうした経験が今後何らかの縁となることもあり得る。
何事もはじめの一歩が大切で、実践してみることが重要だ。

他の記事でも紹介しているが、いつでも誰でもあたたく受け入れてくれるのがタイの寺だ。
いつ訪問しても構わない。

もし、機会があるのであれば、是非とも訪問されることをお勧めしたい。
日常生活の中では、なかなか休日を取ることは困難かもしれないが、ほんの一日でも、数日間の旅行ででも構わないと思う。

瞑想の指導を受けるうえにおいては、やはり言葉は必須であるということはすでに記事としているところではあるが、どうにかしてカバーしようという気持ちさえあれば十分に可能であろう。

関連記事⇒

『瞑想修行のできる寺』
『瞑想中に目は閉じるのか?開くのか?』

『オープンなタイのお寺』
『タイのお寺あれこれ』
『タイの森の寺』

気軽に(という表現は適切ではないかもしれないが)訪問することができるタイの寺であるが、気軽な中でも注意したい点がいくつかある。
以下に私が是非とも心得ておいた方がよいと感じた点を少しだけお伝えしたいと思う。

タイの寺では、出家者としてでも、在家者としてでも、どちらの立場としてであっても瞑想修行が可能である。
それは、タイ人であっても外国人であっても変わりはない。

ただし、出家者と在家者とは明確に別けられる点は注意しておかなければならない。

タイでは、出家者と在家者とではその立場が明確に異なるため、それぞれの“立場”というものを理解しておくべきであろう。

出家者と在家者の違いは、日本の感覚とは少々異なるので意識して接するようにしておきたい。

ここでは、おもに在家者としての立場に注目してみる。

まず、人々にとっての寺とは「徳を積む場」であるということ。
これは大前提となる価値観だ。

そのため、人々はお布施をするために寺へ足を運び、瞑想という徳を積みに寺へ足を運ぶ。
寺への布施とは、比丘への布施でもある。
よって、比丘と在家者との関係は、“布施を受ける”側と“布施をする”側という関係となる。

また比丘は、日々戒律を順守して生活を送る者であるが故に、常に敬意をはらうべき存在であるということも忘れてはならない。
それゆえ、比丘やサーマネーンに対しては、常に敬意をもって接するようにしなければならない。
そして、徳を積むために、瞑想を学ぶために寺へ行くという姿勢を忘れないようにしておきたい。

タイでは、戒律を受けている比丘と戒律を受けていない在家者とが同じスペースで生活を送ることはできない。
瞑想スペースも、もちろん別けられている。

そのあたりは、寺側からの指示に従えばよいであろう。

タイ人にとって、とても大切な場所へ行くのであるから、よりタイ人に近い気持ちでもって臨むことが好ましいと私は思う。

そこからは、日本では忘れかけられた「寺」という存在とは何かなのが伝わってくるような気がするからである。


日本でもこうしたいわゆる“お寺ステイ”が実施されていることがある。
しかし、それらはあくまで“修行体験”としてであろう。

ところが、タイでは違う。
人々は、徳を積む行為として寺へ足を運ぶ。

それは、日常であり、人生であり、そのひとつひとつが真摯に徳を積もうとする行為である。
それぞれの求めに応じて、それぞれの思いによって、真剣に取り組んでいるのである。

それは単なる“お寺ステイ”ではない。
単なる“修行体験”でもない。

全てが善行である。

是非とも真摯に臨まれたいと思う。

日本ではあらかじめ参加費用や宿泊費が設定されているが、タイではこの点も異なる。
各個人が身の丈に応じた金額を布施すればよいのだ。

泊めていただいたお礼に、瞑想を指導していただいたお礼に、そして自己の徳を積むために・・・それぞれがそれぞれに応じた思う金額を寺へ布施すればよい。

お世話をしてくれた寺の方や比丘に対して“言葉でのお礼”もお忘れなく・・・。

日本人が最も戸惑う場面だという。
値段が設定されていないというのは非常に困る。
いくら支払えばよいのか?と思うかもしれない。

しかしここは、タイ人と同じく行動をしておけばよいだろう。
隣に来たタイ人に身ぶり手ぶりでも構わないので、そっと尋ねてみてもよいかもしれない。


タイの寺での滞在や瞑想の経験が、今後の人生が善き方向へと進んでいくきっかけとなれば、このブログも少しお役に立てたのではないかと思う。

さらに、志が固まったのであれば、是非ともそのモチベーションを大切に持ち続けていただきたいと思う。

いつでも、誰にでも開かれている。
いつでも、誰でも瞑想修行が実践できる。
いつでも、誰でも心穏やかな時を過ごすことができる。

そして、いつでも誰でもあたたかく迎え入れてくれる。

それがタイの寺の大きな魅力である。


私には無理・・・と思われた方。

志はより高いほうがよい。
志はより大きいほうがよい。

しかし、行動を起こすにあたっては、あまりに上を見過ぎてはならない。

山の頂へ登ろうとする時。
山の下から頂ばかりを眺めていたのでは、今何をすべきかを見失ってしまう。
今為すべきことは、一歩を踏み出して、頂へ向かって歩き始めることである。

歩き始めなければ頂はおろか、5合目にも辿りつくことはできない。
足元には石ころもあれば、水たまりやぬかるみもあることだろう。
すぐ足元にあることを越えて、一歩ずつ歩み進んでゆく。
歩を進め、歩み続けた結果、頂上に至っていることであろう。

今、すぐ目の前にあることに対して、全力を尽くすべきである。

今できることを全力やってください。
今できる最善のことをやってください。
今できる最善のことを全力でやってください。

そうすれば、おのずと道は開かれてくるものであると私は確信している。

人は、志の向かう方向へと進んでゆくものである。
志を強く持って進む・・・それが道となる。

必ずその志は成就されるものと確信している。



善なる徳行は すべての命あるものの 未来のより所となる



関連記事⇒

『瞑想修行のできる寺』
『瞑想中に目は閉じるのか?開くのか?』

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(『やっぱりタイのお寺で修行がしたい。』)

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