タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/11/15

一時出家の意味


一時出家なんて意味がない。

還俗が前提の出家など意味がないではないか。


一度比丘となったのならば、一生比丘を続けるものだ。


私は、かつてそのように思っていた。


ブッダの時代はどうであったのだろうか。

詳らかなことを知る者は誰もいない。


仏典の中には、さまざまな人の出家に関するエピソードについての記述はあっても、還俗についての記述を見ることはない。


はたしてブッダの時代にも還俗する者もいたのであろうか。


ご専門の方や詳しい方がいらっしゃれば、是非ともご教示願いたいと思う。



私もタイで出家し、還俗した。

結果的に私も「一時出家」となった。


日本へ帰国してからしばらくは、心の整理がつかなかったこともあったが、やがてはこの「一時出家」に対する見方が変わるに至った。

還俗が前提の出家など意味がないと思っていた私であったが、こんなにも意義深いものであったかという驚きにも近い思いを抱くに至ったのである。


タイの出家生活にも様々な変遷があったことであろう。

今も昔も変わらぬ出家生活のなかにも、数十年、数百年前と現代とでは、やはり同じではないこともあることだろう。

まして、はるか2600年前のブッダの時代の出家生活と同じであるとは思わない。


これは、今に生きる私が感じていることである。

私の経験したことを通じて、日本で今を生きている私が感じたことである。



タイでは一時出家をもって一人前の成年男子として認められる。

私もタイでは、出家を済ませた一人前の成年男子なのである。

一人前の「男」として胸を張って歩くことができるのだ。


タイでは、あらゆる年齢層において出家者がおり、特にこの年齢で出家しなければならないという決まりはない。

しかし、例えば結婚前など、比較的若い年齢でもって出家を済ませることが多い。


私は、この一時出家は単なるタイの習慣であるとしか思っていなかったが、なぜ、出家を済ませることで一人前の成年男子であると認められるのかが今ではよくわかる。



日常生活から一度離れて「出家」の生活を送る。

出家の生活とは、経済活動をせず、金銭から離れた生活だ。

今までの人間関係からも離れた生活だ。

それは、ある意味では異空間でもある。


静かに瞑想をする。

静かに仏法を学ぶ。


仏法を学ぶとは、人生を学ぶことであり、自己を学ぶことである。

それらは、こころの仕組みを学ぶことに他ならない。


そうした穏やかで静かな時間を過ごすなかで、人生において大切な“ものごとの捉え方”というのものを学んでいくのではないだろうか。


私は、還俗後、日本で実に多くの“出来事”と出会った。

苦悩の前では、仏教や瞑想など全く意味がないではないかとさえ思ったこともあった。


ふと、あのタイでの穏やかなる出家生活を想った。


深い深い苦悩は、自己のこころが見ていることであり、自己のこころが作り出しているものではないか。

今の自己の姿、今の自己の感情がいかなるものであるのかを観察することの大切さに気づいた。


瞑想している時だけではない。

穏やかに過ごしている時だけではない。


現実に生活している中でこそ「気づき」がなされなければならないのだ。


これから様々なことに出会うであろう若者達が成人となる通過儀礼として出家がある。

それは、人が力強く、幸せに、そして穏やかに生きていくすべを身に付けるためのものではないだろうか。


在俗生活を送るからこそ必要な智慧であるとも言えると思う。

苦海の荒波を越えてゆく智慧なのではないだろうか。


人生の「理」を知って生きていくことは、まさに宝物を得たことに他ならないと私は思う。


実際にそれを自覚するタイ人は少ないのかもしれない。


「俺は、出家なんか嫌いだ。」と言い切ったタイ人にも出会ったことがある。

しかし、私は確実にタイの人々の間には、こうした人生の宝物を得た人達がたくさんいるように思う。


一時出家の意味や意義は、多くの学者や研究者達が「学術的に」指摘している。

また、さまざまな学術書や仏教書にもたびたび記載されているところである。


だが、それらはあくまでも“学問”の範疇を出るものではないと私は強く思う。


比丘とは、法を実践する者であり、真理を学ぶ者であり、悟りを目指す者である。

比丘でなくとも、真理を学び、真理に沿って生きていくことができる。

それが、在家としての生き方であろう。


仏教の価値観を身につける。

人生の「理」を知る。


これでどれだけの人生の中で出会う問題を越えることができるだろうか。

家庭生活のうえにおいても、社会生活のうえにおいても、より穏やかで、より幸せで、より心豊かな人生を送りたい。


誰もが願うことである。


人間が抱くごく自然な願いではないか。


冒頭にも書いたが、タイの出家生活にも様々な変遷があったことであろうと思う。

数十年、数百年前と現代とでは同じであるとは思わない。

はるか2600年前のブッダの時代とも同じであるとは思わない。


タイの人々が出家を終えた時の思いと私の思いが同じであるというわけでもない。

人それぞれの思いがあって良い。


ここに書いたことは、タイで一時出家を経験して、日本で今を生きている私が感じたことである。

私の経験したことを通じて、この瞬間まで歩んできた人生のうえで感じたことである。


一時出家という習慣がタイに現代まで伝わっている意味がここにあるのではないかと私は思うのである。



(『一時出家の意味』)



【メールマガジンのご案内】

メールマガジン『こころの探究のはじまり』を配信しています。
全45話にわたって求道の旅路を綴っています。




0 件のコメント: