タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/08/19

資格となった僧侶

僧侶の資格を取得する。

このように聞いて、どうお感じになるだろうか。
おそらく大半の方は、特に何も感じないのではないだろうか。

私もそうであった。
タイの仏教に触れるまでは。

周囲に寺の後継ぎ達がたくさんいた学生時代には違和感など微塵もなかった。

当然だろう。
寺の出身者達が、日常的にそのように話しているのだ。

得度を受ければ僧侶となる(僧籍に入る)ことができる。
さらに、各宗派所定の課程を修めれば「住職」の資格(教師資格)を取得することができる。

得度と教師資格をセットにして「僧侶の資格」と言うことも多いようだ。

(※ただし、これらは各宗派によって一様でないということを付記しておく。
また、僧籍や教師資格については、私が見聞し、体験したことを基に記述しているということを前提にお読みいただきたいということも併せて付記しておく。)

得度することで、「僧侶」という資格を“取得”することになるわけだ。

そう、日本では「僧侶」とは一種の“資格”であると認識されていると言っても過言ではないのだ。

僧侶が「職業」であるのならば、僧侶という「職業」に従事するための「資格」であるというのもうなずける。

ところが、タイの仏教に触れてからというもの、僧侶が「資格」であると見なされていることに対して著しく違和感を感じるようになってしまったのだ。


仏教系の大学である私が学んだ大学では、僧侶、すなわち家業である寺を継ぐために僧侶の「資格」を取りに来る学生が多い。

彼らは、寺という家業を継ぐために大学へやって来るのだ。

そうした住職の卵達には、仏法を求める過程など存在しない。
仏教を真剣に学ぼうとする者はごくごく少数だ。

彼らには、仏教に生き方を見出そうとする姿勢はないようである。


学生時代に出会った知人とのことである。

彼は、将来住職となるべく、卒業後の地位が約束されている。
そんな知人が私に言った言葉が今でも忘れることができない。


「俺にとっては、寺がうまく経営できればそれでいい。
お前の言うような生き方がどうのとか、仏教の教学がどうのなんていうことはどうでもいいんだ。」

「住職の資格を取って家に帰ればそれでいい。」

(⇒関連記事:『大学でのショック』


仏教への思いを語る私に、彼はこのように喝破した。
喝破するのは、私の方であろう。

「そうではないだろう!」と。

彼の言葉には、激しく反発を覚えた一方で、まずは寺の経営があってこそというのもうなずける一面があった。

生き方がどうの、仏教の教学がどうのなどと言ったところで、お金が入ってくるわけではないし、すぐに食えるわけではない。

悔しかったが、彼には何も言い返すことができなかった。

そんな彼のどこに仏法を求める気持ちがあるというのか。

そんな彼のどこに“僧侶”の“資格”があるというのか・・・。

ブッダは、そんな彼をどのように思うのだろう。
日本の祖師方・高僧方は、そんな彼をどのように思うのだろう。


私にはその答えはわからない。
かく言う私も、もし彼の立場であったのならば、そうしていたかもしれない・・・。


「いや、私だって悩んだ末に寺を継いだんだ。」
「私なりの求道があったんだ。」
「私は、誇りを持ってやっているんだ。」

と、そのようにおっしゃる方もいることであろう。

今まで様々な場所で聴聞した法話で、自分がどのような道のりで住職となったのかを話される方が何人もいた。

多くの寺の後継ぎ達であっても、悩んだ末に住職という「職業」に就いていることだろう。
きっと他に歩みたい道もあったことだろう。
そこを悩み抜いて僧侶という職業を選び、寺を継いでいるのかもしれない。

だが、私に言わせれば、それらは単に「観念」してその道を選んでいるだけではないかと感ずるところが大きい。

そんなに嫌々やるのであれば辞めてしまえばいいではないか。
納得のゆくまで自分の道を歩めばいいではないか。

そんな僧侶と出会うと、私は内心穏やかではない。

しかし・・・偉そうに書いてはいるが、私にはそのようなことを言える資格などないと思う。

私自身はどうか。
私も、今の“仕事”を喜んでやっているのかと問われれば「否」である。
彼らが“観念”したのと同様に、私も“観念”してやっている側面もある。
生活のためだ。
観念もするだろう。

私も同じだ。

やはり、僧侶とは、職業であり、資格である。
世間の仕事も、僧侶という仕事もなんら変わりがない。


不快感を覚えられる方も少なくないのかもしれない。
批判的な表現になってしまったのかもしれないが、私がそうした仏教の世界に疑問を感じたことが、タイへと向かうきっかけのひとつとなったのであるから、そこは避けては通れないことであると思う。

どうかお許し願いたい。


タイでは、いつでも誰でも出家ができる。
女性であればメーチーという生き方ができる。

出家が嫌なら在家のまま寺で学ぶこともできる。

そして、好きな期間だけ出家生活を送り、納得のゆくまで道を修めることができる。

戒律が順守できなくなれば辞めることができる。

嫌になれば辞めればいい。
ただそれだけである。

1ヵ月だけの比丘もいれば、1年の比丘もいる。
10年の比丘もいれば、50年、60年続ける比丘もいる。

いつ辞めても構わない。
いつまで続けても構わない。

ただし、一度比丘を辞めれば比丘としての生き方はそこまでということになる。
その瞬間から普通の人となる。

でも、また出家をしたいと思えば、再度出家をすればよい。

やる気のある者が比丘を続ける。

それゆえ、サンガの清浄さが保たれるのである。

タイでは、僧侶は職業ではない(⇒関連記事:『僧侶という職業』)と認識されているが、職業ではないのと同様に、資格などでもないということはいうまでもない。


日本では、僧侶とは一生ものの「資格」である。

自分の意思で僧籍を離脱する、あるいは宗派から強制的に僧籍を剥奪されるかされない限り、一生有効な資格なのである。
戒律や生活態度、僧侶としての生き方など一切問われるものでもない。

ゆえに、日本では還俗するということはあまり聞かないし、その必要もない。

今や、「還俗」という日本語は、死語だと言ってしまっても過言ではないだろう。

それが現代日本の「僧侶」であり、タイの仏教と最も異なる点のひとつであると私は思う。


サラリーマン僧侶という言葉をよく耳にする。
得度ビジネスなどという言葉まで耳にする。
さらには、とある新聞の広告欄に「“在家出家”のすすめ」なるものまで目にしたことがある。

とんでもないことだと思ってしまう。
どうも著しく違和感を感じざるを得ない。


私は、こうした現状を批判するつもりは毛頭ない。

そうした社会なのであるから仕方がないのかもしれない。

ただ、もったいないと感じる。
どこか腑に落ちない、歯がゆさを感じる。

学生時代には、仏教に対して本当に真摯な人と何人も出会った。
ところが、残念なことに彼らはみな寺の出身者ではない。
彼らは、涙をのんで他の道へと進んでいった。
あるいは、並み以上の苦労が待ついばらの道を進んでいった。

そんな人を何人も見てきた。

また、学生時代に出会った寺の後継ぎ達は、一般家庭出身の私よりも仏法を求めるのには、はるかに恵まれた環境にあって、なぜ最大限にその機会を生かさぬのかと思う。

しかしながら、それを望まぬ者にとっては、全く価値なき機会なのであろう。
むしろ“敷かれた人生のレール”は、ただ単に自分を束縛するものでしかない。

隣の芝は青く見えるということなのであろうか。
所詮は、ない物ねだりでしかないのであろうか。

それがある寺の息子に言われた言葉に凝縮されているように思う。


「お前はいい。なんでも自由に道を選べる。俺は、敷かれたレールを歩くだけだ。
ただ決められた人生を生きるだけだ。」


私は仏教が好きだ。
寺の息子がうらやましかった。

ところが、彼らにしてみれば逆に私の立場のほうがうらやましかったようだ。

“資格”となった「僧侶」。

彼らは、仏法を求める求めぬ関係なしに僧侶となってゆく。
もちろん、そうした道のりの中では大切な“何か”に出会い、学ぶこともあることであろう。

しかし、それはブッダや先人達の求道とは次元を異にするものなのではないだろうか。


そんな日本の“資格”となった「僧侶」。

僧侶という資格を取得した彼らが担うことになる日本の寺。
そんな日本の寺に一抹の不安を感じるのは私だけであろうか。


真剣に法を求める者達は、一体どこへ行ったらよいのだろう・・・。

私は迷った。
流浪した。

そんな法を求める者達の行き先がなくなってしまうようなことがないように願いたい。


学生時代に大学の図書館で出会った善財童子が頭に浮かんだ。

必ず真実の法に出会えるということを信じている。



(『資格となった僧侶』)

2 件のコメント:

座馳 さんのコメント...

ブログ拝読いたしました。

日本の仏教の現状、本当に「もったいない」ですよね。

今の日本にこそ仏法を求める人は数多くいるであろうに、日本の仏教では仏法を満足に教えることが出来ないというのは、「もったいない」としか言いようがない。

ただ、私もそうですが、日本の仏教があることで、仏道に関心を持つ人は多いと思います。日本人と仏道をつなぐ縁となる、そんな役割は日本の仏教も立派に果たしていると思います。しっかり、仏道を歩んでいる僧侶も多いと思いますしね。

また、日本では、僧侶が資格となっていることで、自らの宗派に縛られて、仏道を歩みなくくなっている側面もあると思います。
さまざまな縛りをほどいていくことが仏道でもあるのに、自らを縛っていくというのは智慧が全く働いていない、無明ですよね。

日本では、僧侶から離れたほうがあるいは仏道を歩みやすいのかもしれませんね。
初期仏教を教える場所も少ないながらもありますし、そういう場所は大乗に拘る僧侶ではいきにくそうですし。

問題は、仏道を教える場所が少ないこと、仏道を教えられる人が少ないこと、仏道を歩む人へのサポートがないこと、でしょうか。

歩み始めてしまえば、そのようなことは一切問題でなくなるのですが、そのとっかかりまでが遠いのは仏教国なのに残念なことですよね。

いろいろ考えさせてくれるテーマをありがとうございました。

Ito Masakazu さんのコメント...

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

おっしゃる通りですね。また、ご指摘の問題点もまさにその通りだと思います。

しかしながら、仏教への縁となっている一方で、仏教から離れる要因にもなっているように思います。「坊主憎ければ袈裟まで憎い」ように、現代社会では僧侶はあまりいいイメージを持たれていない一面もあるようです。私は、逆に仏教から離れてしまうような縁となってしまうことを危惧しています。
本来の仏教とは、一般的にイメージされるようなものではないのですが・・・。

仏教とは、合理的・論理的な思考傾向にある現代人であっても十分に納得させることのできるものであると思っています。現代社会にも十分すぎるほど通用します。そして、明日自分がどのようにして一歩を踏み出せばよいのかを示してくれるものだと思っています。
もっとも、それは私達がどのように理解していようとも、ダンマ、すなわち仏法・真理ですから世間に遍満しているわけですけれども。

本当に「もったいない」です。私もまだまだ学ぶ者ですが、学んでいる者だからこそ、そうしたことを少しでも伝えていけたらいいなと思っております。

追伸:
「自らの宗派に縛られて仏道を歩みにくくなっている側面もある」・・・私もまったく同感です。実は、そのあたりのテーマも記事にしていたのですが、うまくまとまらずにお蔵入り中です。

今後ともよろしくお願い致します。