タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2012/07/22

ある女性の言葉

タイは、95%が仏教徒という敬虔な仏教国である。
また、生活の中にも仏教と関連する行事が多く、日常と仏教とが非常に身近である。

さらに、多くの男性は一生に一度は寺に入り、出家の経験を持つ。
仏教とは宗教なのだと意識されないほど仏教が根付いている国だ。

そんな仏教国・タイであるが、最近では出家をしない青年男子も多いという。
また、仏教に関心を持たない人も増えつつあるのだとか。

・・・もっともその割合は、日本の比ではないが。

当然と言えば当然であるが、こんなにも仏教が生活のすみずみにまで浸透している国であっても、仏教に関心のない人や批判的な人だっているということであろう。

そのあたりの事情は、ところ変わったとしても、おそらく同じなのだろう。

日本人である私がタイで生活をしていると、外国人ということでいろいろな場面において、タイ人の興味をひき、実にさまざまな質問をされる。

「何をしにタイへやってきたのか?」
「日本の仏教ではダメなのか?」
「阿羅漢になりたいと思うのか?」

などなど・・・。

いろいろなタイ人からいろいろな質問を受けたが、私がタイ人から直接聞いた言葉の中でとても強烈に印象に残っている言葉がある。

それは、とある女性からの質問であった。

「何をしにタイへやってきたのか?」という質問に対して、私は「タイへは仏教を学ぶために、そして出家をするためにやってきました。」と答えると、

『阿羅漢になりたいの?』
『私は、仏教なんて嫌いよ!』
『全員が出家をしてしまったら、人間が滅びちゃうじゃない!』

少しあきれたような顔をして、そしてややきつい口調で・・・
その女性は私にこのように言った。

その通りだ。
でも、その時、私は返す言葉もなく、ただただ黙ってしまった。

確かにその通りだからだ。
その通りなだけにこの言葉には面喰った。

自分さえ道が開かれればそれでよいのか?

私は、この時、自分の考え方の中で、どこかに「みな平等に道を歩めなければならない。」という意識があることに気がついた。

無宗教だと言われている日本。
無宗教だと言っている日本人。
もしかしたら、私のこの意識はどこかで日本人が持っている意識なのか。
ある女性からの言葉にハッとしたのは、もしかすると、日本人のどこかにそのような平等でなければならないという意識を刺激したからではないだろうか・・・。


上座仏教では、教学上は最終レベルでは出家をしないと悟りには到達できないということになっている。
そのような意味では、同じ仏教徒であっても出家と在家とでは道が異なるのだ。

自分が迷っているのに他人に道が示せるはずがない。
自分の心が穏やかでないのに、人に穏やかにできるはずがない。
自分の心が平和ではないのに、平和な言葉が出るわけがない。

自分の心が荒れ狂っていても、他人に対しては穏やかにできる・・・もし、そのような方がいたら生き方のご教示を願いたい・・・

まずは自分から始まるのではないか・・・私はそう思う。


タイでは、他人がどうだとかはあまり言わない。
他人にあまり干渉することをしない。

まずは自分自身が問題とされる。
あまり他人に干渉しないのは、「行動」は自分次第だからであり、自分にしかできない。
すべてにおいて自業自得、因果応報だという考え方が根底にあるという。

『全員が出家をしてしまったら人間が滅びちゃうじゃない!』

確かにそうだ。
多くの在家者に支えられている出家者の生活。
支援する側とされる側・・・全員が支援される側の出家者となってしまったのでは、出家生活は成立しない。
では、全員が在家者となればいいのか・・・。
そうでもないはずである。

やはり、仏教では出家というクローズな空間で生活し、瞑想に励む場が必要だ。
仏教の真髄たるものを伝えていく存在が必要なのである。
それは、多くの支援者に支えられた出家生活でしか得られない。

在家とは、はっきりと異なるから出家なのである。
僧俗のラインがはっきりとしていない日本ではピンと来ないことであるのかもしれない。


仏教とはこの世界の『法則』である。
さらに仏教とは、ひとえに『個人の生きる姿勢』である。

全員に出家を強要するものではない。
また、在家であっても実践できることもある。
在家は在家の位置で仏教を生きて構わない。
自分のできることを自分の位置で実践すればよい。

仏教とは、自分のいる位置で『法則』にのっとって、より穏やかに生きていく生き方を示したものである。
このようにしたらより楽に生きていくことができますよ、あるいはどのようにして生きていけば、幸福に生きていくことができるのかを示したものである。

「個人の姿勢」
これは、他人を救うとか、導くとか、そのような次元とは異なるものではないかと思う。
まずは、自分の姿勢から始まるということが大切なのではないか。
それぞれの位置で、できることから始めればよい。

仏教という法則の大きな流れの中では、在家者も出家者もそれぞれのひとつの段階にしか過ぎない・・・そう思った時、少しだけ穏やかな気持ちになれはしないだろうか。


『全員が出家をしてしまったら人間が滅びちゃうじゃない!』

この言葉には非常に考えさせられた。
敬虔な仏教徒の国・タイでこのような言葉を聞いたのは、ある意味でショッキングな出来事でもあった。



(『ある女性の言葉』)

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