残念ながら、私はそのような現象とは出会わなかった。
瞑想関連の書籍などに記されている光や光の輪も見ることはなかった。
また、日本の書店で見かけたいくつかの瞑想体験記にあるような劇的な体験もなかったし、大きな心の変化などというものもなかった。
悔しくもあり、挫折感もある。
しかし、師は、
「それが目的なのではないでしょう。
また、日本の書店で見かけたいくつかの瞑想体験記にあるような劇的な体験もなかったし、大きな心の変化などというものもなかった。
悔しくもあり、挫折感もある。
しかし、師は、
「それが目的なのではないでしょう。
あなたは、自然を学びに来たのであるし、生き方を学びに来たのでしょう。
あなたは、仏教を学びに来たのではないですか。
瞑想の中ではそのような出来事もあるでしょうが、なかったからといって全く悲観することはない。むしろ、そのような現象にこだわること自体が執着であり、非常に危険なことである。」
という言葉をいただいた。
同じような励ましの言葉は、何度もいただいているし、タイへ渡った当初より聞いており、わかりきっている言葉でもある。
それなのに、やはりなんらかの『成果』を求め、とらわれてしまうという私の執着がある。
そんな私もひとつだけ不思議な出来事の体験を紹介させていただきたい。
私は、深い瞑想レベルには至らなかったため、光を見たり、ブッダを見たりといった現象には出会うことはなかったが、一種の幻覚のようなものと出会ったことがある。
徹夜で瞑想に打ち込んでいた時のこと。
タイの瞑想寺や森の寺などではよくある、瞑想のために外に建てられた簡素な小屋と歩行瞑想のための簡素な建物。
その建物で夜を徹して一人瞑想に励んでいた。
夜には蝋燭の光だけで瞑想に励む。
うす暗いが、慣れてくると蝋燭の光だけでも十分に明るい。
座禅と歩行瞑想を繰り返す。
座禅中に誰かから声がかかった。
・・・おそらく先輩僧の声だったろうか。
「さぁ、ブッダに向かって礼拝をしよう。」
・・・そして、一緒に礼拝した。
「さぁ、ブッダに向かって礼拝をしよう。」
・・・そして、一緒に礼拝した。
タイ式の礼拝で、仏像にむかって3回礼拝した。
ところが、ふと気がつくと誰もいない場所で、ただ一人礼拝し、座っていたのだった・・・
一瞬わけがわからなかったが、幻覚だったのか。
もう一度、似たような体験をした。
同じく夜を徹して一人瞑想に励んでいた時のこと。
用をたそうと座を立ち、衣を近くに置いてあった椅子に掛けようとしたところ、サーッとその衣を掛けようとした椅子が消え去ってしまった。
瞬間、やや戸惑ったが、今、見ていたはずのこの椅子は幻覚だったのかと気がついた。
目の前には何もなく、ただ地面だけが見えていた・・・
この2つの出来事は、とても不思議ではあったが、どうやらまぎれもなく幻覚だったようだ。
その時、眠気は感じていなかったと記憶しているし、それほどまでに疲れてもいなかったと記憶してはいるが、それらは、眠気によるいわゆる「寝ぼけた」状態だったのか、あるいは疲労による幻覚だったのだろう・・・と私は思っている。
師にそのことを報告すると、
「あ、そうですか。今度は、ブッダが見れるといいね。」
とだけ返された。
「・・・」
私は、師のこの答えに少々納得がいかなかったが、よくよく自分の中で吟味をしてみると、
「こだわらずにいきなさい。」
ということなのだろうと思った。
幻覚を見たのは事実。
幻覚を見たのは事実。
事実は事実として、単なる事実としてとらえる。
それに意味を加えたり、意義を見い出したりしてはいけない。
まして、自分なりの解釈を加えたり、特別なものとしてとらえてはならない。
眠気の中で出会った夢でもいいし、疲労の中で出会った現象でも構わない。
それはそれでいい。
そのようなことはどうだっていいのだ。
仏教の目指すところは何であったか。
『特定の現象を求めないこと』の頁の通り、自己の心をも客観的に観なければならない。
(『特定の現象を求めないこと』⇒http://tekutekubukkyou.blogspot.jp/2012/05/blog-post.html)
師の言葉は、仏教の目指すところをしっかりと確認して進んで行きなさいということなのだろう。
私はそう思った。
(『瞑想・幻覚のなかへ』)
0 件のコメント:
コメントを投稿