タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2011/05/01

オープンなタイのお寺


タイのお寺はいたってオープンである。

出家者・在家者を問わず、誰にでもオープンである。


在家の者であれば、寺のお手伝いさんとして、そのまま住み着いてしまう者もいるほどだ。

出家者であれば、自分の師を探して訪ねたり、求める学問を修めるために寺を移ったりする。


タイの人々は、自由にお寺にやってきて、お布施をしたり、瞑想をしたり、寺で好きな時間を過ごして帰っていく。

もちろん、そのまま泊まることもできる。


山奥の寺などでは、一種の旅館的な役割を果たしているともいえる寺もある。

見知らぬ旅先でのオアシス的な存在ともいえるのだろうか。

日本でたとえれば、峠の茶屋といったところか。


旅館などの宿泊施設といえば、予約が必要なのかと思いきや、勝手に来て勝手に出て行って構わないようだ。

料金などの設定もまったくない。

もちろん、お寺なので、仏像に手を合わせ、多くの人はいくらかのお布施を置いてはいくが、それも任意。


ちょうど寺が見えたから、今日はあそこに泊めてもらおうか・・・といった具合であろう。
誰も何も言わないし、まったくそれでいいのである。


日本ではちょっと考えられない・・・いかにも懐が深い!



また、近年、タイでは瞑想ブームとも言えるほど瞑想の人気が高まっている。

タイ人にとって瞑想とは、仏教的な善行・積徳の行為としてはもちろんのこと、さらにその土壌の上に、近年、メンタルヘルスとしての目的が加わってきているように思える。

それゆえ、名だたる森の寺や有名な瞑想指導者のもとには、出家の僧だけではなく、在家の者もはるばる遠方よりやってくる。


タイ人だけではなく、外国人にも非常にオープンである。

各地の瞑想道場では外国人も積極的に受け入れている。


出家をしなくても修行ができ、瞑想指導を受けることができる。

短期間の滞在でもいいし、月単位・週単位、数日の滞在でもかまわない。

日本における『寺』のイメージをはるかに超えた寺がタイにはある。


いつでも誰でも受け入れてくれるのがタイの寺なのだ。



(『オープンなタイのお寺』)



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