タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2010/05/10

出家の目的は?

出家の目的は何ですか?

皆様方が出家者だったならば、どのようにお答えになるであろうか。

精神修養ため、人間性向上のため、苦しみを越えるため、悟りを開くため・・・

そう、仏教とは、悟りを開くことが、特に上座仏教では阿羅漢になるということが最終的な目標のはずである。

ところが、阿羅漢になりたくて出家する者など一人もいない。

もっとも、タイでは人生の通過儀礼として出家をするので、誰もそこまで考えて出家をしているわけではない。

「阿羅漢になりたいのだ。」などと言ったところで笑われるだけだ。

私は、実際に笑われた。


もうひとつ。

ある寺で、先生をしている僧との会話。


「君は、阿羅漢になりたいかい?」

「はい。」

「知っているか。阿羅漢になったら、この世にはもう生まれてこれないんだぞ。」

「はい。知っています。」

「私は、阿羅漢になりたくはない。この世で徳を積んで、来世でいいところに生まれて、楽な暮らしがしたいんだ。君もそのほうがいいと思うだろう?」

「はぁ・・・。」


この言葉には、少々複雑な気持ちにさせられた。

この会話が示す通り、この世で徳を積んで、次に生まれて来るときには、その積んだ徳でもって恵まれた境遇に生まれてきて、楽な生活をしたいと考えている。

そのためには、阿羅漢にまではなる必要はないし、解脱をする必要もないのだ。

適度に恵まれた境遇の人生でもって輪廻転生できればいいというわけである。

このような考え方からすれば、『ワット・プラ・タンマカーイ』で紹介したような生天思想(人間よりも楽しい世界であるとされる天界に生まれようとする考え)が受け入れられるのもうなづける。

関連記事:
『ワット・プラ・タンマカーイ ~その特徴~』

なにも、苦労して阿羅漢を目指さなくとも、適度に徳を積んで恵まれた境遇に生まれて、今よりもよりよい生活をしたい、あるいはさらに多くの徳を積んで天界に生まれて、楽しく生活をしたほうがいいというわけだ。

仏教という大きな流れの中では、そういった考え方もよいのかもしれない。

また、輪廻転生という生まれ変わり、死に変わるその長い長いスパンでの視点では、仏教の法則にかなっているとも言えるかもしれない。

なんとも楽天的なその考え方は、どこか気持ちを軽くさせてくれる。

しかし、いくら恵まれた境遇に生まれたり、天界に生まれて楽しい人生(神生!?)を送ることができたとしても、所詮は輪廻の世界であることには変わりはない。

天界は、人間界よりもはるかに楽しい世界であるというが、やはりやがては「死」がおとずれるという。

天人は、人間よりもはるかに寿命が長く、はるかに楽しいぶん、その楽しみを失う苦しみは人間の何十倍であるという。

このことを忘れてはいけない・・・。



(『出家の目的は?』)



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3 件のコメント:

body_mind さんのコメント...

こんにちわ、はじめまして。

Yahoo!知恵袋から来ました。
タイで約3年弱出家ですか、ある種うらやましい。
私はとうとう出家は叶いませんでしたが常に出家も
選択肢の一つと捕らえていたので幸か不幸か長く
女性と付き合わずに来ました。

私なら「阿羅漢にはどう頑張ってもなれそうも無いから
せめて預流とかあるいは苦の多い人間界よりは天界」って
思うけど、「阿羅漢になりたくない」って意外と言うか
やっぱりと言うか一時僧ならともかく、先生筋の方には
そう言って欲しくないですね。

かのBuddhadāsa長老ですら預流を噂されたというの
だから預流でさえ夢のまた夢なのかと思いつつも、修行
の真似事は死ぬまで続けようというか、食事や睡眠など
と同じく日常の一部であり続ければなあと思っています。

4/29 上弦布薩日に

Ito Masakazu さんのコメント...

コメントありがとうございます。
おっしゃる通りですね。一応、真剣に仏教 を志してタイまでやってきた私にとって、
「阿羅漢にはなりたくない。」
という言葉は、非常に意外でショックな言葉でした。「先生」クラスの比丘からの言葉です。
しかし、タイでは「習慣」として男性なら誰もが普通に出家します。そして、そのまま年数を重ねてきて、それなりの位置に来た出家者もたくさんいるはずです。誰もが真剣に仏道を歩んでいるわけではないわけです。習慣の延長線上ですから。
よく考えてみれば、日本でも「悟りを得るために出家した」人や本気で「仏」になろうとしている人も少ないはずです。結局は、日本もタイも同じことなのかもしれないなと思ったりしたものです。
しかし、タイは三宝がしっかりと生きている国であり、その点においては日本とは比較にならないところだと思います。

日本人・タイ人を問わず、この出家を通じて様々な『先生』や『師』と出会うことができました。逆に真剣に仏道を歩んでいる人も、めったに出会えない中にも、少なからず存在しているのも確かなようです。
その先生の中の一人が、『たとえ悟りには至らなくても「少しでもよききっかけ」(=徳を積む・よい行いをする)を積み重ねていくことが大切なのだ。仏教の大きな流れの中で考えれば、それもまた意味のあることだ。』と語ってくれたことを覚えています。

出家は、たとえ一時出家であっても非常に意義深いと感じています。いろいろな仏教的な感覚が体感として理解できるような気がします。
日本では、依り所となるべきサンガが存在しないことは非常に残念です。現在は、私も日本で普通に生活をしていますが、いつまでも仏教を忘れたくないと思っています。

只今、ブログを加筆・訂正し、整備をしております。今後も新しく記事をアップしていく予定ですので、これからもよろしくお願いいたします。

body_mind さんのコメント...

「僧になることは得難い」・・・私にとっては一時出家でも得難かった。
こちらこそよろしく。