タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2010/05/05

比丘の生活1

タイの僧としての出家生活は、いうまでもなく227の戒律を守って日々を送ることが基本となる。

それ以外にも、律蔵にある記載などより出家生活の規範が定められている。

しかしながら、日本の『お坊さん』や『出家』という感覚とは異なることが多々ある。

タイの仏教を知る人であれば、なんら特筆すべきことではないが、意外に知らない人が多い。

出家生活に関する詳細は、他にも詳しく記された書籍もあり、近年では、さまざまなブログや体験記などでも紹介されているので、そちらに譲るとして、私が日本の感覚との差が著しいと思った事柄を以下にいくつか挙げてみたい。


◎出家をして僧となったら、常に僧衣を着用していなければならない。

出家をしたら、先ほどまで着ていた衣類をはじめ、在家で使用する(今まで使用していたものを含む)衣類等は着用してはならない。

また、寝る時であっても、在家で使用するパジャマ等を着用してはならない。
出家は出家の服装で過ごすというのが原則である。

僧は僧の着用すべき衣類が、用具があり、出家をしたその瞬間から出家前に使用していたものからは離れて、出家者用のものを使用しなければならない。

ちなみに、再び在家の服装を着用するということは、すなわち『還俗』を意味する。

逆に言えば、僧衣を着用していない者は僧としては認められないということである。

日本のように僧侶がスーツ、私服や仕事着、Tシャツなどを着用するということはタイではあり得ないことなのだ。

僧は僧の格好をしなければならない。

「なぜ?」と、違和感を感じられる方もあるかと思うが、出家とは何かということを問うてみたい。

そう、俗世間から離れることである。俗世間とは異なった生活を送ることが『出家』にほかならない。

俗世間とはっきりと一線を引くところに出家の重要な意味がある。

タイでは町を歩くとごく普通に僧の姿を見かけることができるし、僧衣を着ているので一目で僧だとわかる。


◎僧籍は一生ものではない。

僧をやめたら、つまり還俗をしたら、僧ではなくなる。

もちろん、一生還俗しなければ僧籍は一生ものではあるが。

当然といえば当然なのだが、日本においては、一度得度をして僧になれば、自分の意思で僧籍を離脱するか、強制的に僧籍を剥奪されない限り、なにをしていたとしても一生有効であり、僧として認められる。

兼業もできるし、僧を辞めて、一時的に他の職に就いたとしても僧は僧で、自由に再び僧に戻ることもできる。

ところが、タイでは、僧は仕事を持つことができない。

よって、僧として他の職業につくことはできない。

一度出家した者が他の職に就きたいと思えば、僧をやめなければならない。

そして、再び僧になりたいと思えば、再度出家をしなければならない。

もう一度、得度式を受けて、受戒しなければならない。

出家と在家のラインがはっきりとしているのである。

タイには、一時出家の習慣があり、タイ人男子は一生に一度は出家をするという風土にあっては、出家をする、僧になる(比丘になる)ということは、それほどまでに重くは受け取られていない。

出家とはタイ人にとっては、ごく気軽なものでもある。

比丘をしたければ出家をするし、辞めたくなったら還俗するといったように、出入りが自由なのである。

「還俗」という言葉を知る日本人はどれだけいるだろうか?

ある意味、日本では「還俗」という言葉も死語に近くなってしまった感があるが、「還俗」とは僧をやめること、出家から俗に戻ることを意味している。

僧籍はひとつのライセンスだといった日本人僧侶がいたが、タイではそうではない。

しかし、僧というものがひとつの職業と化してしまった日本では、僧籍はひとつのライセンスであり、資格の一種だといっても過言ではない。

この点が日本とタイの大きな違いだ。


◎年配に見えても、必ずしも目上の僧侶とは限らない。

タイの僧伽は年功序列ではない。

僧の序列は、出家順である。

一日でも、一時間でも、先に出家した者が上位となる。

タイでは、習慣として結婚前や就職前などに出家を済ませておくことが多いが、年齢を問わず出家をする者がいる。

どうしても、年配の僧侶を見ると、何年も僧侶をやってきた大先輩、ベテランだと思い込みがちなのだが、意外にも若い僧侶のほうが上位でベテラン僧侶であったということが頻繁にある。

ちなみに、一度還俗して再出家をした場合、どんなに年数を重ねてきた者であっても出家歴はリセットされて1年生からはじまる。

タイでは、比丘同士が出会うと、まずお互いに出家後何年目かを聞く。

これは、例えば食事をする際の席順など、いろいろな場面に関係してくるからである。

釈尊の弟子となった奴隷階級である理髪師・ウパーリの出家の話は有名である。

釈尊は、教団内にまで世俗的な考え方を持ち込ませないために、奴隷階級であるウパーリが出家を申し出たとき、ウパーリを最初に出家させ、その後に王族の人たちを出家させ、ウパーリを彼らの上位に置いた、といわれている。

日本で年寄りの坊さんの方がありがたがられるんだとこぼしていた若手僧侶がいたが、見た目ではなく、出家歴が重視される。


◎僧侶は結婚できない。

結婚はもちろんのこと、一切の性的関係を持つことが禁じられている。

一切の性的関係を持つことが禁じられているので、当然、僧侶の結婚などあり得ない。

性的関係を持った際には強制的に還俗させられることになる。

では、結婚ないしは性的関係を持ちたくなったらどうするのか?

僧を辞めればいいのである。還俗する。ただそれだけである。

ちなみに、「一切の性的関係」と記したが、男女関係だけではなく、男同士、女同士、さらには動物との性的関係をも禁じている。

戒律において動物との関係をも含めているということは、おそらくはそのような行為が実際にあったのであろう。

日本の僧侶が結婚できるということは、タイではかなり広く知られており、この僧侶の結婚に関してタイ人から質問攻めにされることはしばしばである。

また、説明に窮する質問であることも事実。タイでは、性的関係をもったら僧侶ではないのだから、非常な関心事なのである。

これに関連してもうひとつ。

タイでは僧は、女性に触れてはいけない。

女性側では、僧に触れては修行の妨げとなって、罪になると考えられている。

町を歩いている時も、女性のほうから避けてくれるし、女性からお布施を受け取る時も、パープラケンという女性からお布施を受け取る時に使う専用の布でもって直接女性に触れないようにして受け取らなければならない。

戒律には「欲情を持って女性の身体に触れてはいけない。頭髪をも含む。」とされており、ここから来ているタイの慣習である。

参考までに、厳密な戒律の文言を載せておく。

『何れの比丘といえども、欲情に駆られ、転変した心をもって女人とともに身体の接触に従うならば、或いは手を捉え、或いは髪を捉え、或いはいずれかの身体の部分を摩触するならば僧残(僧残とは罪名のひとつ)である。』

とあり、下心をもって触れなければ問題ないことになるのだが、やはり女性を間近にしてよからぬ心が暴れ出すことを防ぐための配慮であると理解したい。

女性を見ただけでも心は暴れ出すことがあるのだから・・・。

「性」に関することは、出家の生活の中でも最も苦しいことの一つなのではなかろうかと思う。

異性関係のみならず、自慰行為も厳禁されている。

私も出家生活の中では、性的な感情の高まりは多々経験した。

性的行為については人間としての生物的な欲求でもある。

しかし、それだけに、私たちの日常生活の中では、いかに男女に関するトラブルが多いことか。

まさに出家とはそれらを冷静に見つめ、自分の中の欲と正面から対面することなのである。


◎午後は食事ができない。

ここに挙げた中では、比較的広く知られていることがらなのかもしれない。

タイの寺では、午後は、飲み物以外のものは口にすることができない。

このことについては、森の寺の頁でも詳しく紹介しているので、そちらも参照されたい。

日本の僧堂などでも、この伝統を受けて、夕食は正式な食事ではないという扱いであるという。

町にある寺などでは、戒律の運用が比較的緩やかであるので、「おつまみ」程度の食事は黙認されることもあるが、修行寺では堅く守られている。

午後に食事をしないことは、少々苦痛に思えた。しかし、自分だけが食べずに我慢しているのではない。

また、おいしい食べ物のにおいがする中でひたすら我慢せよというのであれば、さすがにおおいに苦痛ではあるが、寺の僧全員が午後の食事をしないわけであるので、寺の日課に慣れてくるにしたがって、意外にも慣れてくるものであった。



このように、タイのお坊さんと日本お坊さんとでは様々な相違点があるわけであるが、気候も風土も大きく異なるので仕方のないことなのかもしれない。

しかし、一昔前の日本においても、かろうじて守られていたこともいくつかあるかと思う。

また、日本ではあまりかえりみられることの少ない戒律の意味も、今では形骸化したものやその意味がわからなくなってしまった条項もないとは言えないが、その大部分はひとつひとつに大切な意味を持つものだと感じた。

日本の出家では、戒律は受けるが、まったく無視をしているというのが適切な表現だろうか。

私は、タイ人から日本の出家について質問を受けた時、「無視をしているだけだ」と答えることにしていた。



(『比丘の生活1』)



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