『森の寺』である。
日本でいえば、修行寺のようなものであると言えようか。
タイには、多くの森の寺があるが、森の寺には、緩やかな「系列」のようなものがある。
それは、多くの日本人が思い浮かべるような「宗派」や「派閥」といった確固たるものではない。
タイ人は特に「系列」を意識をしているわけではないので、系列という表現も厳密な意味では正しくはないのかもしれない。
ひらたい言葉で表現すれば、「寺の方針」といったところか。
町の寺に比べると、森の寺は、戒律がより厳しく守られ、「森住すること」や「瞑想」に重点を置いており、「より質素な生活」を重視する点で共通しているが、森の寺も様々で、細かい戒律の運用具合や、どのような修行方法や瞑想方法をとるのかは寺によって異なり、住職の方針によっても異なるところがある。
系列の一例として、師弟関係によるものがある。
ある比丘が、ある師匠に師事し、その後独立して寺を建てたりすると、戒律の遵守具合や、瞑想法など、寺としての基本方針や基本的性格は、当然師匠の方針を踏襲することになる。
弟子が増え、同じ師匠を慕い、同じ方針をとる寺が複数となることによって、ひとつの系列のようなものができる。
タイの森の寺には、このような系列がいくつも存在する。
一方で、特に師弟関係などは持たない単独の森の寺なども存在する。
それらの系列とは関係を持たない者がそれらの寺に入れないのかというと、そうではなく、住職の許可を得れば、その寺で修行することができる。
あくまで、「系列」とは、親しい付き合いのある寺の一群をあえて表現したもので、その気があれば自分の思う寺へ行って修行することができる。
つまり、自分に合った師匠を求め、あるいは自分に合った修行場所や修行方法を求めて行脚することも可能なのだ。
まさに雲や水の如く、悠々として行き来し、住む場所に執着することなく、至る処を行脚することも可能な環境が今も生きている。
(『タイの森の寺』)
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